徒然の書

思い付くままを徒然に

プランの航海~ケルトの古伝承~

 
インド・ヨロッパ語族共通の古代神話は独自に発達しながら進化した。
ケルト人の幻想的な神話は地中海民族の合理的な神話とは共通点を見出すことは出来ない特異性を持っている。
ギリシャ人の神話を特徴づけているのは神々の社会は階層化されており、ゼウスを頂点にしてその許で神々がそれぞれの固有の権限を持って、役割を果たしている。
役割外の神々は他の領域に踏み込んでくることはない。
 
ギリシャやローマなど及びもつかないケルトの文明は相次ぐローマ人やゲルマン人の侵略によってほとんどすべて破壊され、消滅してしまった。
この破壊と消滅から逃れたのは、最西端に位置する地域のアイルランドスコットランドウェールズ、コンウォール、とフランスのブルタニュー半島だけであった。
この地域にはケルトの言語と共にラテン民族とは全く異なる習慣、伝統、考え方、信仰、そして数多くの伝説と生と死と超自然的なものに対するドルイド教の観念が根強く残っていた。
このドルイド教もやがてキリスト教化の波によってのみ込まれてしまう。
 
ケルトに古くから伝わった伝承が、ケルトキリスト教の修道士たちによって書き留められて、後の世界に伝えられたのは幸運と言わざるを得ないのであろう。
東方キリスト教ドルイドの宗教と重なり合い、習合してケルトキリスト教となり、その修道士たちによって記録にとどめられた。
その中での特に重要と言われているのがイムラヴァと称される、他界への旅の物語集である。
ケルト人の宗教の最も大切なのは彼らの他界についての考え方なのである。
 
日本の民話浦島太郎によく似た、アイルランドの古伝承に、ケルト人の他界思想が語り尽くされているように思う。
プランの経験した他界は此の世と地続きで、プランの様に死という門戸を通ることもなく、生きたまま向こうの世界に行くことが出来るし、向こうの世界からこちらの世界に来ることもできる。
とは言ってもこの二つの世界は同質のものではなく、やはり彼の世の世界は死の世界と言うことになるのだろう。
 
浦島が経験したように、彼の世の一年は現世での何百年にも相当する、ことはプランの場合も同じである。
時間の流れる速さが違うのか、あの世には時間と言うものが存在しないのか、現身の世に戻ると、数百年が経過しており、もはや知らぬ世界の住人になってしまうのである。
このプランが行った世界は女たちだけの世界であり、死の国ではなく、女たちは将に生きているのである。
 
ケルトドルイドたちに依れば死者が赴くのは、同じ魂が他の別の場所で、別の肉体を持って生きる事である、というのである。
これがケルト人たちの勇猛さを裏付けるものなのであろう。
これがケルトの人々の死後の世界についての考え方なのである。
ローマのカエサルガリア戦記で、驚きをもってケルト人の勇猛さを語っている。
 
それでは、フェヴァルの息子プランが辿った航海を見てみよう。
とある日プランは城の近くを散歩していたところ、後ろの方から妙なる音楽が聞こえてきた。
余りの心地よさに眠り込んでしまった。
どれほど経ったのだろう、目を覚ますと、白い花を一杯に付けた銀の枝が置かれていた。
彼はその枝を持って王宮に帰ると、そこには人がいっぱい集まっていた。
その中に見なれぬ服装をした乙女が現れ、美しい声で歌ってプランをエヴナの国へ誘う。
プランを眠らせて銀の枝を置いていったのはこの乙女に違いない。
乙女が歌って聞かせるエヴナの国こそ、ケルトの人々が思い描く他界の姿に他ならない。
乙女がプランに渡したのは、海の彼方のこの他界に一年中実を付けるているりんごの木の枝であった。
この花咲き乱れる常春の国に於いては、この世に於ける様な飢えも寒さもなく、苦悩も悲嘆も、死さえもない。
この不老不死の国の美しさとそこに住む者の幸せを聞かせる。
これらの事を考えると、やはりこの国には時間と言うものがないのであろう。
如何やらそこは女だけの国にようである。
プランはすっかり彼女に魅了され、不思議な乙女の呼びかけに応えて、その翌日にはそれぞれ九人の乗組員からなる三艘の船で出帆するのである。
何昼夜かの航海の後、喜びの島の側を通り一人乗組員を送るが、帰る様子もなく、そのまま置いて、再び出航する。
夜になる前に女人の国、ティル・ナン・バンに到着した。
島には美しい娘たちが、列をなして彼らを待っていた。
乗組員たちは宮殿に迎え入れられ、宴会が始まるのだがご馳走はいくら食べても尽きる事はなかった。
既に寝床は用意され、それぞれ好みの女人と共にすごした。
この快楽のうちに過ぎ去った時間はほんの束の間のように思われた。
その様に過ごしている内に、一人の乗組員がホームシックに罹り、女王の説得にもかかわらず、プランはアイルランドに戻ることを決意する。
乗船するときは、誰もが女人の島で過ごしたのはほんの僅か数年ぐらいだと思っていた。
女王から決して陸地に足を付けてはいけないと言われていた。
彼らがアイルランドの地に近付いたとき、人々は何者かと尋ねた。
私はフェヴァルの息子プランだと名乗っても、人々は知らないと言った。
その人々の中に、ずっと以前年代記の中で、プランと言う男の航海の事を読んだことがあると言いかけると・・・・・
一人の乗組員が我慢し切れずに陸地に飛び降りてしまった。
彼の姿は何百年も地上にあったかのように、灰と化してしまった。
シイの時間は生きているものの時間ではなかった。
プランは今までの冒険の一部始終を人々に語り、再び沖へと出て行った。
その後、彼らがどうなったか知る者はいない。
 
ケルト人が思い描いた他界は、ギリシャ人やローマ人が思い描いた他界とはまるで違う。
ギリシャの他界はあのオデェセイアに描かれた様な、禍々しい不気味な暗黒の世界で深い海の底か、あるいは地中深くにある世界として描かれている
ケルト人の思い描く他界は此の世と地続きの世界であり、向こうの世界からこちらに来ることもできるし、死という経過をたどることもなく現身のまま向こうの世界へ行くこともできる。
彼の世とこの世とは隔絶している訳ではなく深いつながりがある。
 
我が国の浦島が過ごした他界の竜宮城も同じ様な描き方なのであろう。
浦島の行った竜宮城は海の底深くにあるのであって、決して此の世と陸続きの生の世界と言う訳ではないのであろう。
これらの二つの世界は、いずれの場合においても、決して同質のものではない。
ケルトの伝承の中で、一番理解できないのは、生者の世界とこの他界の世界が、時空を超えものであるにも拘らず、隔てというか壁と言うかその様な頻りが見当たらないという点である。
ケルトの人々の観念が一番如実に感じられるところであろう。
とは言っても、ケルト人ならだれでも現身のまま、他界の国へ自由に行けるのではないらしい。
シイに足を踏み入れるためには原則的には死者とならねばならないのだが、例外的に死の門をくぐることなく、自らの意志でその場所へ入ることのできる人々もいた。
多くの場合この様な航海の探索に出かけた者たちが成功するのは、呼びかけを受けた者たち、あるいはシイの神々や妖精たちの招きを受けた者たちだけだったようである。
数多くの他界への旅を語る民話や伝承からそれを知ることが出来る。
このアイルランドの古伝承である、プランの航海もその一つであろう。
時間あるいは空間などと言うものが、如何に相対的なものであるかと考えさせられる。
 
参考
ケルト神話と中世騎士物語                      田中仁彦著           中公新書
ケルト神話の世界          ヤン・ブレキアン著                   
田中仁彦 山邑久仁子共訳            中公文庫
ガリア戦記                      カエサル            國原吉之助訳     集英社学術文庫
 
  
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街路樹の桜が満開になり、街が一気に華やかになった。
 
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