徒然の書

思い付くままを徒然に

薔薇~牝雞無晨~


 
 

 

バラ園を回っている度に思い起こすのは、このきれいな薔薇の花を冠した戦争が、ちょうど30年も続いたという人間の権力欲が、多くの人々を苦しめてきた歴史である。
人間という生き物は絶えず争っていないと気が済まないらしく、関係のない弱い民を犠牲にして、己の権力欲を満たそうとする。
このいわゆる薔薇戦争というのも、イギリスに於ける王家の権力争いであった。百年戦争が終わった直後の薔薇戦争で、迷惑を蒙ったのは市民ばかりであった。
権力欲にうつつを抜かすものが如何になろうと、それは自業自得。
王家が権力に欲を出すと、国を二分する争いになるのは、何もイギリスばかりとは限らない。
我が国日本でも、南北朝の発端となった後醍醐の氾濫は、建武の中興などと言ってもてはやされたが、能力のない輩が権力を握るといい結果にはならない様である。
おのっれは何をするでもなく、後ろで能書きを垂れて指図するだけの、無能な輩のために、あたら有能な人材を失う愚を犯すのは何も我が国だけとは限らないが・・・・
その愚かな輩のために、数百年後の明治の世に、北朝明治天皇など、天皇家の正当は南朝であることを認めさせられて、随分と悩んだことだろう。
南朝北朝など言って現代にまで尾を引いている。
薔薇戦争が行われていた頃、我が国では応仁の乱が人々を苦しめており、イギリスの薔薇戦争の最中でも、王妃マーガレットがしゃしゃり出て、応仁の乱では日野富子などと言う女がしゃしゃり出て、11年に及ぶ内乱になった。
 
洋の東西を問わず、中国の書経にあるように・・・・
 
 牝雞無晨。牝雞之晨、惟家之索。
 
であるらしい。
 
一応は読み下してみると、「牝鶏晨する無し。牝鶏の晨するは、惟れ家の索くるなり」と言うことのようだ。
要するに雌鶏が時を告げるようになると、家が滅びる前兆であると。
我が国でも、その例に暇はない。
先の日野富子しかり、秀吉の妾、淀君しかり・・・・
淀君がしゃしゃり出て秀頼は自害、家を亡ぼしてしまった。
中国では西太后がでて帝国自体を亡ぼした。
雌鶏が鳴くのはいずれも我が子を権力の座につかせるためではあるが、何も己の子の幸を願うためだけではなく、権力者の生母として権力を振るうためが真意のようである。
我が国の政界においても女がしゃしゃり出て、党を潰してしまったのは記憶に新しい。
 
 
 
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