鷹山の見た人の心
今から二百五十年か六十年前、江戸中期の頃、今の日本の様に膨大な借金を抱えてにっちもさっちもいかない藩に婿入りした男がいた。
その藩はほんの僅か数名の家老と言う為政者によって牛耳られ、民は己らの食うものや種もみまで税として巻き上げられて疲弊しきっていたのは今の日本とそう変わりはない。
日本の記者たちは誰の事を言っているのか判らなかったという、日本人の恥さらしが揃っていたらしい。
何ともお粗末な新聞屋であった事か、新聞屋の見識も落ちたものである・・・・
ところがある日、忽然として尊徳の銅像は消えた。
戦争の末期、資源が不足してくると、この銅像は勿論の事、寺の梵鐘や更には家々の鍋釜まで供出させる馬鹿が日本を治めていた。
ケネディーは日本の政治家として、何よりも国民の幸福を考え、民主的政治を行い、政治は潔癖でなければならないと云って、己の日常の生活を律した鷹山の姿を見たのであろう。
今の政治屋とは将に正反対の鷹山の姿は人々の共感を得ない筈はなかった。
悪政に慣れきった人々の心は何時の時代にも同じように、己自身できずかない様な無気力なものになっているのであろう。
現代でいえば、何年に一度か、どんぐりを選びに行くのが、己の首を締めていることに気付かず、民主主義の発露だと思っている人々の心。
それ故、その米沢の人々の心を変える事にも随分と鷹山は心を砕いた。
生まれたばかりの赤子から棺桶に尾てい骨で引っかかっている年寄りまで、ほんの僅か350円はたばこ銭だなどと政党給付金などと言って、銭を巻き上げ、その一部ではあっても己らの懐へ入れる、現代の政治屋とは人間が違っていた。
僅か350円と雖も、その僅かな金がなくて、餓死する人も日本と言う国には存在するのである
一汁一菜、木綿の着物で一生を通した鷹山の姿にケネディーは自分の理想の政治家の姿を見たのであろう。
尤もこの二人にしても戦前は、小さな子供でも知っていたが、戦後は物の考え方が全く違ってきたのであろう、鷹山や尊徳を知る人も少なくなったのであろう。
だが今、何故鷹山なのか・・・
鷹山が婿入りした米沢藩と同じように、膨れるだけ膨れた赤字。
金を貸すものも無く、藩返上さえ考えた米沢藩。
専横を極める無能な家老・・・
庶民の食べる米さえない程に税を課し絞れるだけ絞ろうとする無能な政治・・・・
将に鷹山の直面した政治と経済が、そっくりそのまま今の日本の状態として現れている。
鷹山は疲弊しきった庶民の意識から変えていく必要があったのは、今の日本の庶民の意識と全く同じである。
将に今鷹山の政治と経営手腕が必要とされている。
そんな時代なのであろう。
すぐれた人物は何時の時代でも通用する優れた言葉を残している。
新渡戸も著書武士道の中で、鷹山を取り上げている。
追々と鷹山や新渡戸の武士道についてを書き足して行こうと思う。
榎本武揚などは戊辰戦争では箱館の五稜郭にこもり、政府軍と交戦するが歳三はじめ多くの兵を死なせたが、命惜しさにおのれだけは延命を策して降伏し、のちに大臣になった薄汚い榎本武揚とは対照的な潔い生き方をした。
武士道華やかなりしころ、己は腹を切っても部下の延命を策したものである。
武士道も地に落ちたり明治の代。
明治2年5月11日、享年34歳であった。
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