弓削の道鏡 その参
この時代の貴族などと言われる、公卿たちの頭の程度は密告、讒訴、讒言による保身については優れてはいるのだが、いざ問題が発生した時に適切な対応する能力は全く欠落していたと言っていい。
一度として勝利したという記載は見あららない。
それまでに、何十万の兵を失った事か。
蝦夷が都へ攻め上ったとすれば、一たまりもなく朝廷など消滅していたであろう。
貴族だなどと、庶民を虐げる頭しかない輩が、この後の道鏡の出世に指をくわえてみているしかないのも当然と言えば当然なのである。
道鏡に対する忌避の情は心の中で渦巻いていた。
寵愛を受けて出世した者はその主の死と共に消え去るのが、この時代に於いても、江戸の時代に於いても当然のこととされていたが、道鏡もそれは十分に承知していた。
女帝にすれば愛する者にあらゆるものを与えたいのであるが、現実社会においては段階を踏まなければならないのは当然のことである。
ただ出世と遊興に明け暮れる貴族などの能力と比べると、若い頃から様々な修行を積んだ道鏡の能力は比較にならない程優れている。
称徳天皇の政治については道鏡の考えが随分取入れられていることは、他の貴族たちも感ずいていることは明らかではあるが、道鏡の政治感覚は従来から政治に携わってきた者にとっても、驚くほどのものであったらしい。
大臣禅師となった、道鏡は仏教的な政策を実行していた。
未婚の女帝、皇太子のない女帝の苦悩は、道鏡への愛に現れているような気がする。
続日本記には次のような記事がある。
天平神護元年十月になって、女帝は詔されて、・・・・また仰せられるにはこの位、太政大臣禅師をお授けすると申したならば、きっとその重責に耐えられませんと言われるであろうと思われるので、何も本人には申さないで、太政大臣禅師の位をお授けする。
女帝の道鏡に対する愛の証、心遣いであろう。
ここに道鏡は最高の位に上った。
大神比義は山に入って修行し、長い間姿を現さなかったとされているが、明らかに道教的思想による行為である。
宇佐八幡は託宣で有名だが、これは神懸りした巫女の託宣と同じで、原始的な呪術と道教との混合である。
道鏡は宇佐八幡に自分と同じ呪術の神の存在を感じていたのかも知れない。
それ故にこそ封戸を与えたと考えてもおかしくはない。
国分寺は国家的な大事業で、この様な事業につきものは、ある種の人間が私腹を肥やすための絶好の機会であるのは、今も昔も変わりない。
それ故に道鏡はその費用収支を報告させたと言われている。
道鏡はその地位を利用して私腹を肥やす奴腹を憎み、厳罰を科した。
道鏡が為した仏教的政策の一番大きなものは寺領を除き、一切の墾田を禁止したことである。
天平年間に出た墾田開発をした土地は永久に私有を許すという法令であり、これは有力者が墾田開発に夢中になる一方、そのために年貢を払えないものを使役に使うという悪循環が全国に広がっていた。
今も昔も有力者は肥え太り、貧者は只々働くために生きるという状態が世に蔓延していた。
これを禁止したとなれば、当時の有力氏族藤原などは道鏡に対する反感を増幅させることになった。
仏教界に基盤を持たねばならない道鏡にしてみれば、寺だけを除外したのは当然の事であった。
これらのことは、天平神護元年の女帝の詔として発表されている。
この法王の位は聖徳太子一人であった。
だが、皇太子のない、独身の女帝にしてみればこれでは済まない思いがあったであろう。
聖徳の心の中には、聖武が云ったというあの王を奴と為すも・・・・という言葉が、常に去来していたのであろう。
聖徳の望みは、政の場でも二人並んで政務をとりたいという望みは早いうちから抱いていた。
先帝天の帝のお言葉で、朕に仰せられたことは、天下は朕の子、汝に授ける
王を奴と為すも、奴を王とするも汝の好きなようにすればよい。
例え汝の後に帝として位についている人でも位について後、汝に対して礼がなく、従わない様で無作法な人は帝の位に置いてはいけない・・・・といって淳仁帝を帝の位から退かせると云ったという。
世に言われる様に称徳が一時の愛欲に迷ったのであれば、道鏡との交わりはもっと違ったものになっていたであろう。
だが女帝の心の内は、道鏡にに対する愛が深まる前とは明らかに違っている。
皇太子の居ないことの心の負担が、天平神護元年三月五日の詔で女帝の心の内を窺い知ることが出来る様に思う。
その詔(宣命体)は・・・・
天下の政治は天皇の勅によって行われるはずであるのに、人が自分の欲するままに、皇太子を選びたてようと思って、功を求め望むべきでない。
そもそも、皇太子の位は天が定め置かれ、お授けになるものである、それ故に朕も、天地が明らかな霊妙な徴候をを以て、皇太子の位をお授けになる人が出現するものと思っている。
それまで今しばらくの間は・・・・・人を誘ったり誘われたりすること無く、・・・仕え奉れと仰せられる言葉を見なたてまつれと申し告げる。
―――続日本記―――
元年以来、謀反が有ったり、呪詛が有ったりして、皇族内部に猜疑と呪詛の巻き起こった不安な事が続いていた。
一般的には、宇佐神宮の神託にからむ道鏡事件については、道鏡自身が宇佐八幡宮のお告げだと偽って皇位をうかがい、それを忠臣の清麻呂が正しいお告げを持ち帰ることによって道鏡の野望を打ち砕き、皇位の安泰がもたらされた、という風な解釈がなされています。
宇佐八幡宮は、予め分かっていた誰かが望んだであろうと思われる内容の「神託」を下したに違いないと思われることである。
ただ、複雑な当時の政治状況を考えると、状況を見極め得る聡明な道鏡が自ら中心になって神託そのものを作為したとはとても思えない。
道鏡の内心を忖度した神託であったかもしれない。
だが清麻呂が確認に行ったときどの様な折衝があったのか、簡単に神託を変更したことになっている。
さざんか
すっきりしない秋の日が続いているうちに、もう晩秋を通り越して、
初冬の様な気候になってしまった。
それ故でもないだろうが、さざんかが真っ赤な花を咲かせていた。
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