徒然の書

思い付くままを徒然に

犯罪に於ける科学捜査 その参

裁判に於いて鑑定を依頼する場合においても、鑑定の依頼の仕方によっては、その結果は逆を示すことだってあり得るだろう。
法医学の知識がないために、鑑定結果を本当の意味で理解できない者が寄り集まっていては、鑑定は意味を為さないという事も有り得る。
また医学であっても学説の相違があり見解の相違がある場合も当然ある。
学説の違いで裁判の結果が左右されたら、当事者は堪ったものではない。
一方の鑑定に対する結果に疑問を抱く他方が再鑑定を主張するとき、それを認めない裁判事例を描いたものを見かけるが、鑑定自体に学説の相違、鑑定者の見解の違いによって相違が出る場合裁判官はどの様に考えているのだろうか。
多数の事件を抱えた裁判官にしてみれば、早期に結審してノルマを稼ぐのが成績算定の一つの基準だとすれは、余計な証拠調べや、再鑑定などはとても安易に認めることは出来なかろう。
既に心象を得たから不要と考えるなら、公平な裁判とは言えなかろう。
当然、冤罪が発生する危険性を内包することになる。
それを見抜く力は現在の裁判官には全くないと言っていい。
 
如何して、人間の身体に関する重大な学問に人々は関心を示さないのだろうか。
医学は医者の仕事ではあるが、法医学の知識が己の人権を守ってくれることを十分に理解して、多少は興味を示してもよいのではなかろうかと思う。
その時、法医学に知識が有ると無いでは犯罪の成立をひっくり返してしまうこともあり得るだろう。
尤も今の我が国の人権に対する考え方や、司法制度では余り役には立たないかもしれないが・・・・・
例えば犯罪があって、解剖が必要であったとしても、解剖は大学の法医学教室あたりへ外注されるのであろう。
そこで手順に沿って安易に解剖されて、些細な事ではあるが、犯罪を左右する様なものが見落とされた解剖結果がないとは言えないとすれば、それによる結果が報告されてしまうと、見落とされ、間違った結果によって、迷惑を受けるものも当然出てくる。
当事者にすれば人生そのものを左右する結果になる事すら当然考えられる。
ドラマなどでよく描かれることではあるが、ドラマとばかりは言えないこともある。
法医学は犯罪に関する人体の学問であるだけに興味を示す人は少なかろう。
だが自分を守ることがあるかもしれない学問であってみれば、少しの知識は蓄えていても損ではなかろう。
 
随分以前であるが、確かこのような内容だったとおもうが、

民衆が法医学についての知識を持つ必要がある。
そうすると、不合理な捜査も行われなくなる。
無実の人が有罪の判決を受ける事もなくなる。

を読んだことがある。
 
法医学に係わる人が書いたものだったような気がする。
この時思ったことは、確かに一旦の真理ではある。
一般人が法医学について知識を広めるに越した事はないが、法医学で出された結論の趣旨を正当に評価し、判断できる司法関係者がどれ程いるだろうと言うことである。
恐らく己の方に都合のいい結果であれば、その結果だけを重要視して内容については何の疑問も示さないであろう。
その結果に導かれた鑑定内容など恐らく理解していないであろう。
検体に付着したほんの僅かな異物を間違いなく発見し検証したと、確かに言えるだろうか。
アメリカのドラマなどにも描かれる様に、ほんの僅かな異物が事件を左右することも十分有り得る。
それでも法医学や科捜研でよく使われる技術の概要を知っているのと知らないのとでは、随分と違うであろう事は判る。
よく使われる血液型の判定についての事、DNAについての事。
人間の細胞の核の中に染色体と言うものがありその染色体の役割は、何本何対で形成されている、などの細かいことなど知る必要も無いのだが、それでも知識は身を助けるで、知るに越した事はない。
ただDNAはほんの僅かな細胞、表皮片などでも鑑定可能である。
どんな物が判断材料になるのか・・・・正確にはどれ程あるのかは知らないけれど知っているものを挙げてみると・・・・
まず、血液、唾液、汗、皮膚片、表皮片、口腔粘膜、骨、歯、爪。毛根それと精液など人間の分泌する物は凡そ対象になる様である。
アメリカの科学捜査班のドラマなどを見ていると、麺棒で口腔内を擦って採取しているのを見かける。
四兆七千憶だったか八千億分の一の識別力を持っているというから、一卵性の多数子以外はすべて違ったDNAを持っていると思っていい。
ついでにミトコンドリアDNAなどと言うものも利用されることがある。
このミトコンドリアDNAは細胞小器官であるミトコンドリア内にあるDNAである。
DNAと違って多数存在するし、陳旧資料からでも鑑定できるがこれは母親についてだけの情報である難点がある。
知識なんて、己の専門以外はすべて雑学程度でいい。
その小さな知識が無限の広がりを見せる事がる。
こんなものの知識は雑学でいい。
雑学ではあっても知ると知らないでは、人間の幅に随分と差が出るように思う。
己の専門以外はすべて雑学。
 
閑話休題 捜査をしていくうちに、疑問が生じ、再検査する必要に迫られても、外注であれば不可能な事も有り得る。
無実の人が有罪の判決を受ける事のなくなるためには、司法関係者の意識改革と人権の擁護が重視されることであり、アメリ憲法の修正条項のような規定が当然必要になる。
これは警察、検察権力の大幅な後退を意味するから、いまの我が国の権力主義の国ではとても望むべくもない事柄である。
権力者はありとあらゆることに関して、権力を保持し国民を縛ることは当然の事としているのである。
それと裁判官の意識の中に人間と言う生き物がどんな生き物であるかという事を認識させる必要がある。裁判官自体己を孤高な存在だと思っているのだろうから、下々の事を勉強せよと言っても無理っだろう。
けれども、人間と言う生き物がどんな生き物であるか知らないで、人間を裁く資格はない。
本来人が人を裁くなどと言うことどれほど思い上がったことなのか、真剣に考えたこともない人間、その裁く立場の人間が有りとあらゆる階層の人間と言う生き物が、どの様に生き、どの様に生活しているのか、・・・・人間と言う生き物がどの様な生き物なのか、について全く知らない人間が人間を裁くのだから、間違った判断を下した時、それを償うには、己の全生涯をかけてもまだたらなかろう。
 
実際はどうかはわからないが、恐らく、我が国の警察の取り調べ室はこれまでの様々なものを読んだり、ドラマを見たりしたことから推測すると、外部の者には全く知る事の出来ない闇の中に埋もれた存在なのである。
ドラマや小説に出てくる捜査の仕方を見たり読んだりしていると、とても不合理な捜査が行われても、それを証明する手段は全くないと言うことである。
それを危惧したのがアメリカにおける、捜査における取調べに弁護士を立会わせる制度である。
令状もなく、疑いを持ったものの家宅へ侵入したり、任意同行を求めて、任意同行であるにもかかわらず、延々と取調室に閉じ込めて、入れ代わり立ち代わり取り調べを続行している拘束紛いの事が行われている、場面が良く描かれている。
これは逮捕してしまうと、時間の制限があるから、それを回避する為の手段であろう。
自白を得られればそれはそれは最高だが、話の内容から証拠集めの手蔓をつかもうと考えているのではなかろうかと、思う事がある。
法医学の知識は己を守るためには必要とは言うが、本当に必要とするのは司法に関与する者なのである。
銃社会であるアメリカでは、銃による犯罪に関する法医学の活躍は実に精密である。
銃による法医学に関しては、同じ法医学者にしても、銃による犯罪の少ない我が国ではその扱い方は雲泥の差があると言えるだろう。
我が国では規則ばかりが重要視されて臨機の処置が出来ないことの多いのは何もこのような場合ばかりではない。
 
ドラマで演じられ、小説に書かれたことが、全くの出鱈目で根も葉もないことであったとしたら、当然捜査当局あるいは関係機関よりクレームが付くと思っていい。
要は、アメリカの様に取り調べに弁護士の立会いさえ許されていない、不当な人権侵害が当然のごとく行われたとすれば、公平な裁判など行われるはずもない。
捜査における自白偏重は今も我が国の捜査の中心を占める最重要課題である。
長時間にわたる取り調べで、朦朧として、己が何を云ったのか判らない様な異様な状態での自白であっても、裁判でそれを覆すことは殆ど不可能であろう。
裁判官は実際の取り調べがどの様な状態で、それがどの様な影響を与えているのかは知らなかろう。
あるいは知ってはいてもそれを考慮しようとはしないであろう。
現在の我が国の捜査方法が続く限り冤罪の危険性はなくならない。
冤罪がなくならない限り、余程明確な証拠がそろっていない限り、死刑の判決は怖ろしくてできないであろう。
人の命奪ったものは、それを償えるのは、奪ったものの命だけである。
人の命を奪ったものが、ほんの僅かな刑期で世の中に姿を現すなど、殺された者の遺族にとって、とても容認できないだろう。
もちろんこれには裁判官や検事の、更に実際に取り調べをする人間の頭の構造の変化がなければ無くならないことではあるが。
 




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