徒然の書

思い付くままを徒然に

司法の独立などあり得ない


先日コメントを戴いた返事を書いている内に随分と長いものになってしまいました。
返事に代えて・・・・
 
司法権の独立、云われて久しい。
だがどの様な意味で使われているのかは知らない。
裁判官も官僚制度の一員であり最高裁の事務総局に統括されています。
すべてその意向に従って動く訳ですが、政治屋の意向や思惑が意識するとしないとに係わらず、その事務総局の出方を決定付けていると言っていいのでしょう。
司法の最高峰も内閣によって指名されることを考えても政治屋支配下にあると考えるのが当然と言えば当然でしょう。
小さな時から、学歴社会に対応すべく、様々な受験勉強の身に純粋培養された人間は,子供の頃に培われるおおらかさや友との付き合いをも犠牲にしてひたすら一流大学をめざし、官僚方面のあるいは司法方面の国家試験に行きついてみれば、世間即ち実生活の中で実際に行われている人々の生活と言うものを肌で感じたことは有り得為ったでしょう。
その官僚裁判官になっても,公務員宿舎あるいは官舎から送り迎えされる日々では世間と言うものは全く知ることは出来なかったでしょう。
我が国の新任裁判官は凡そ在学中に司法試験に合格し、司法研修を終えた二十四、五歳の若者。
それらは小さなころから受験だけに命を燃やした、人付き合いも社会と言う人々の生き様などとは無縁の生活を送ってきた者たちでしょう。
その若者が先にも書いたように、任官してからも人との付き合いも社会の実生活とも無縁の生活を送っている。
そんな歪な人間が実際の社会生活から起こる争いを判断するのですから、当然間違ってしまうことが常に出てくる可能性があります。
その様な人間は法律のプロではあっても、社会の常識が何で、正義とは何なのかはたして的確に己の内に持っているでしょうか。
この様にして裁判官になったとしても、実社会の経験も少なく、法律にしても、精々四、五年の研鑽でしかもそれはすべてペーパー上の優秀さでしかない。
然も任官後は出世を目指した、最高裁の事務総局の査定を頭が常に気にした判断が優先する。
裁判の件数をこなすためには、証拠調べの件数を減らす為申請を却下することも度々ならず起り得るでしょう。
優れて、人の世の争いを判断するためには、ペーパー的優秀さとは別に、実社会性と人間としての柔軟さ、洞察力などを備えた優秀さが必要でしょう。
更に弱者に対する思い遣り、心の広さなど、神にも類する能力があって初めて人を裁くことが出来る、それ程人を裁くということは困難な事だと思っています。
ただ高い壇上から、人を見下ろす傲慢な心では人を裁き、人と人との争いの真実を見抜くことは不可のでしょう。
多くの人は裁判は法廷で真実を解明し、真実を求めて争っていると思っているでしょう。
現代の裁判官にその様な真実を白日の下に明らかにする力などありません。
裁判官は法解釈については専門家ではありますが、事実認定については、民事であろうが刑事であろうが、一般の社会人と全く変わりはありません。
実社会の実情に疎い面を考え合わせると、普通の社会人より劣ると見る方がいいのかも知れません。
彼らは判例によって物を判断しますから、同じような事例があれば同じような結論を導き出そうとするでしょう。
物事は表面は酷似していても、全く同じということはありえない。
それが政治に係わる事であって、自分の考えとは違っていると思っても判例に従わざるを得ない。
さもなければ、成績査定のときに影響を及ぼし一生ドサ廻りをする羽目に陥ります。
裁判官も人間である以上、出世を望み、大都市の裁判所勤務から上級へと望むのは無理からぬことです。
人間の出世欲は裁判官と云えども、一般の社会人、いや人間として当然の事です。
少なくとも小さなころよりあらゆることを犠牲にして手に入れた職業ですから。
裁判官は一流の国立大学を出なければ任官できません。
最近は私学出の裁判官も出たとは聞きますが・・・・・
ですから世間一般に人々は裁判官は頭がよく、あらゆる事例に対して的確な判断を下すものと思っているでしょうが、とんでもないことです。
国立の一流大学への最短距離はいかに効率よく受験技術を身に着けるかどうかに掛かっており、頭脳の優劣とはほとんど関係ないと思っております。
そのような裁判官が法廷で、原告、被告の応酬を見ながら判決するのですが、世間の実社会の実情に精通していない者にとっては、複雑な社会組織の中で惹起された、複雑な事実を認定することは非常に難しいでしょう。
両者の攻防の技術の優劣によって、事実認定は如何にでも変わるというのが真実なのでしょう。
ですから事件の真実ではなく訴訟上の真実、それが間違っているかどうかは関係なく、を求めることになる。
実社会に於いて惹起されたものとは全く違う事が訴訟上で真実とされる、それが誤判であり、刑事の場合は冤罪へと繋がっていく。
即ち、訴訟上の真実とは、実社会の真実とは全く違うことも有り得るという事でありましょう。
それ故によく世間で言われる様に裁判は水物などと言う言葉、或は裁判と言うゲームを争うなどと言うことになるのでしょう。
問題は、裁判官も人間であるということである。
この人間と言う厄介な生き物が、たかだか三年や四年、法を学んで、あるいは世間の実生活と没交渉に近い生き方をしたものが、人間の争いを裁こうというのだから厄介である。
蛇足ではありますが、いずれの裁判官も一人で何十件もの訴訟を抱え、その件数消化実績が能力算定の基準になるということです。
必然的に、証拠調べの申請も却下されることも度々起こる事でしょう。
当事者が重要と思う申請であっても、裁判官が心象を形成したと言われれば無視されてしまうことになる。
よく証拠調べの申請、却下などと言うことを聴きます。
要するに、訴訟と言うゲームは裁判官の独壇場。
小説などに出てくるように裁判官が居眠りしていても、ゲームは進行し、判決へと導かれていきます。
その裁判官は憲法と法律にのみ従うと規定されています。
 
法律至上主義、恐ろしい言葉です。
世の中は法律がすべてだと思い込んだ少壮の世間知らずが、法を振り回すほど怖いことはない。
一方が権力者である場合それが基本的人権の制限につながって、それを制限する様なことになっても、権力者に有利な判決が導かれることが度々起こる。
権力者に司法が阿るという事は、必然司法権の独立が脅かされることになる、という事でしょう。
どちらに転んでも、間違いではないというところに政治即ち時の権力者に有利な判決も平気で為される、即ち司法権の独立などと言うのは理念としては在っても、政治から自由な判断が為されるということは殆どありえない。
気概のある少壮裁判官が、時の権力に不利な判決を出しても、控訴、或は上告で破棄されるのが目に見えています。
今までその様な裁判例は数多く出現しているでしょう。
 
因みに、憲法七十六条は三項で次のように記している。
すべて裁判官は、その良心に従い独立してそのその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される。
と記している。
ということは、個々の裁判官の資質が、人間と言う生き物を裁くに値する資質を持ち合わせていなければならない。
この憲法および法律にのみ拘束される、とは言ってもただの法律馬鹿であっては、人間と言う生き物は裁けない。
 
とは言っても下記のような規定があっては・・・・
最高裁判所長官が内閣の指名に基づいて天皇が任命するのに対し(日本国憲法6条第2項)、最高裁判所判事は内閣が任命し天皇が認証する(日本国憲法79条第1項、裁判所法第39条第3項)。の規定もある。
この司法権の根幹にすべて内閣が関わっている。
司法権の独立には重大な制約であると言わざるを得ない。
三権分立の一つの権利に、他の権利が重大にかかわっていては、三権分立もただの言葉の遊びと言うしかない。
憲法にある基本的人権を無視して、権力者のプライバシー権を優先させた裁判もある。
しかしそれが基本的人権の制限に係わってくるとなると事は重大です。
我が国の基本的人権などは公共の福祉などと言う鵺の様な言葉一つでどうにでもなる。
判断を下すものの心次第ということである。
 
我が国程基本的人権の権利意識に淡白な国も珍しい。
それは太古以来長い間、昭和の半ば近くまで権力と言う化け物に、人権に対する権利意識が権力に抑え込まれ、意識する事すら咎められた歴史の所為でしょう。
歴史が千年、二千年と続くとおいそれとは変革できない。
それは歴史自体が示している。
 
ドラマなどで見たことがある人もいるでしょう。
外国の壮大な裁判所の入り口近くにこの目隠しをされた、剣と天秤秤を持ったユースティティア像が立っているのを・・・・・
この女神はローマ神話の女神で、ギリシャ神話のテミスと同じ女神だと言われている。
何故目隠しをされているのか・・・・・目隠しは相手の姿や身なりを見ない事で相手の地位や名声に囚われない事を意味するためのものと言われている。
すなわち心眼でものを見るということである。
心眼でものを見るほど、心を鍛錬した裁判官などいるのだろうか。
我が国の最高裁のホールにこの像があるという。
しかしなぜか目隠しはされていないデザインであるという。
見る人によっては、その思いはさまざまであろう。
 




書斎の窓から 乱れ飛ぶ雲
穏やかな日ばかりはないようだ。



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赤々と燃えた陽がようやく山の端に隠れ、茹だるような熱暑がようやく終わろうとしている。
まだ青さの残る空、荒れ模様の天候に、
乱れ飛ぶ雲が残照を受けて面白い光景を見せてくれている。
何時まで見てても飽きないが、落日の速さは驚くばかり、
すぐに山の端を染めていた真っ赤な残照も、名残り惜しそうに消えて行った。


 
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