徒然の書

思い付くままを徒然に

ユートピア


過酷な人民支配が行われる社会では、持ち上がってくるのがこの馬鹿げたユートピアなどと言うものを考え付くのであろう。
だが多くの場合、人間と言う生き物の正体を全く理解しないところから始まっている。
それが西洋における人間の考える限界なのであろう。
そこに展開されるのはすべて空想の世界おとぎ話の世界である。
しかも、モアなどの描くのは完全な共和政などと強調している割には、空想のユートピアにも拘らず発想が驚くほど貧者な空想である。
人間の差別は厳然として存在するし、戦争は認めないとは言っても、時と場合によっては戦争するなどは、とてもユートピアの世界とも思えない。
こんな阿呆臭い書物を読む暇は今の我にはない。
人間と言う生き物がどの様な生き物であるかさえ、はっきりと理解していない。
そんなものが人間と言う生き物が目指すユートピアとは何を意味するのかさえ分かっていないようだ。
こんなものでも書こうかと思ったのはイギリスの王のけた外れの暴君ぶりであったのだろう。
好色、利己的、無慈悲かつ不安定な王であったとされている、この様な支配者が出現すると自然に理想を求める者あらわれてくる。
 
ユートピアなら東洋人の考えるユートピア桃源郷の方が遥かに面白い。
陶淵明の桃花源記は淵明がフィクションの世界に興味を抱いた結果であろう。
中國では古く孔子の怪力乱神を語らずが建前で、後々まで小説などに類する作者の頭の中で考え出されたフィクションの世界は語られなかった。
陶淵明がフィクションの世界に興味を持っていたことは彼の多くの作品にあらわれている。
この淵明の桃花源記を読むごとに脳裏に浮かぶのは、後代の我が国の平家落人部落の事である。
我が国で平家落人部落と言われているところは実際の平家の落人たちが世に隠れるために築いたものかどうかは知らない。
だが彼らが世に隠れて、安息を求めて山を分け入り、人里離れて生活をしたことは事実であろう。
この落人部落がどの様にして発見されていたったのかは知らない。
だが、桃花源記に描かれた様に、世間の人々とは完全に隔絶された世界で生きていた人々であったことは確かだろう。
フィクションと言うより現実の姿であったかもしれない。
この漁師が偶然にたどり着いた桃源郷の様に、落人部落も発見されたのかも知れない。
この落人部落が平家の落人たちだとすれば、平安末期我が国の数々の権力の過酷な要求から逃れた、それなりに平安な生活を少なくとも江戸期まで楽しむことが出来たということかもしれない。
だとすればまさに桃源郷で、異世界の人間が入り込んでくることは絶対に阻止しなければならない。
我が国の過去の様々な時期に、それなりの集団を持った部族が、この様な異世界を作り上げたこともあったかもしれない。
現代の様に権力によって根こそぎ記録された、人々にとってこのような桃源郷は夢のまた夢ではあるが、それだからこそ桃源郷を夢見るのかも知れない。
 
この桃源郷には桃源郷詩が添えられており、この桃花源記の方が添え物なのか判断は難しい。
だが淵明が言いたかったのは詩の方であったのかも知れない。
しかしこの詩は淵明の作ではないという説もあり、正確な事は判らない。
 
この桃花源記には詩が添えられている。
その一部を記すと
  春蠶收長絲  春蠶長絲を收め
 秋熟靡王税  秋熟王税靡し
  ・・・・・・
  ・・・・・・

  童孺縱行歌  童孺縱に行き歌ひ

 斑白歡游詣  斑白歡び游びて詣る
 
春になると蚕から長い生糸を取り、秋には作物の取入れをするが、お上に税を納める事はいらなかった。
・・・・
・・・・
子供たちは気ままに歩きながら歌い、斑白の老人たちは楽しげに誰彼の家へ遊びに行ったりしていた。
 
この詩句の様に権力から自由になることが、桃源郷の本当の意味なのであろう。
 
今の日本の様に民草無視の政治であれば、始皇帝も驚嘆し是非とも我が政に取り入れたいと思うかもしれない。
 
現今の世の様に、政治屋も官僚も好き放題に振るまい、過去の我が国の封建時代の様に収めても収めても幕府の財政は逼迫し、飢饉などの天災や事故があれば即餓死者が続出した、そんな状態が今の我が国であろう。
介護に疲れた翁が、媼を手に掛けなければならない、そんな世の中は正常な世とはとても言えない。
政治屋や、官僚共の中で、この翁の心に思い至り、心を痛めたものが幾人いたか、恐らく皆無であったろう。
翁や媼を介護する責任ある者は儒教の孝経に依るまでもなく、子らの責任。
年寄りは姥捨て山へと捨てておきながら、国民年金などと言う美名を冠して、長い間取りたてて来たにも拘らず、いざ支払いになると言を左右にして,支給年齢を高めたり、額を削ったり、国民をだまし続けた政治屋の責任は・・・・・詐欺師紛い、いや詐欺師そのものと言わざるを得ない。
年寄りは年寄り同士で面倒を看あえとばかり、翁と媼から高額の保険料を取り、挙句の果ては一気に二割の増額する介護保険料、等々暴政と言わずして何という。
政治屋や官僚共の横暴は狂っているとしか言いようがない。、
それでもこんな輩でも、己が歳をとり、老いてゆくことは知っているらしく、今の甘い地位を退かなければならない時のために、おいしい天下り先を確保する手を着々と準備しているという。
己が年老いた時、過酷な政の犠牲に堪えるために・・・・・
安易な政治を行い、放漫な政策を続ける世であれば、桃源卿へのがれたくなるのは人情と言うものであろう。
散歩の途中でまた阿呆な言葉を見つけた。
この道をまっすぐ行く・・・・・
この様な先の見えない暗闇の世へ続く、真っ暗な道をまっすぐ行かれたら、民草は如何すれないい。
おのれの進んでいる道が間違っていることは、年々増え続ける国の財政赤字を見れば、認知症の翁でも判ろうと言うもの・・・・・・
我ら個人なら、もうすでに自己破産を申し立てているのかもしれない。
それとも、無能な政治屋、官僚共はゆくゆくは民草におっ被せればいいとでも算段しているのだろうか
 
淵明の言うように・・・・

    借問游方士   借問す方に游ぶの士

   焉測塵囂外   焉ぞ測らん 塵囂の外を
  願言躡輕風   願くば輕風を躡み
  高舉尋吾契   高舉して吾が契を尋ねん
 
ちと伺いますが、世間のしがらみの中で生活している諸君には、騒音轟々たる塵世の外の別天地など窺い知ることはとてもできまい。
願わくは軽やかな涼風に乗って、大空高く舞い上がり、自分の理想に合致した、あの世界を訪ねて行きたいものである。
 
また荘子は・・・我々を労働させるために生を与え、我々を安楽にさせるために老年をもたらすのだと言っている。
荘子はこの我が国の老人疎外の現状を見たらどの様に思うだろうか・・・・
おのれの言うことが間違っていたと反省するだろうか。
 
いずれにしても、空高く舞い上がり、大空を逍遥して、桃源郷とやらへ是非とも行ってみたいものである。
参考文献
 
陶淵明                                一海知義                                       岩浪新書
陶淵明全集                   松枝茂夫 和田武司共訳注     岩波文庫
 
 
 
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