徒然の書

思い付くままを徒然に

近くて遠いは明治の世


古本屋をぶらついていると日本史の江戸末期から明治初期の部分を収載したのを見て、読んで見ると結構知らないことが実に多い。
明治維新はは四民の農工商の人々には全く関知しないところで、下級武士や足軽、中間など武家に係わりのある者たちが起こした騒動であった。
それでも、人間と言う生き物の面白さが、馬鹿馬鹿しさが歴史の表面を飾っている。
幕末から明治維新はおおよそ百数十年たった今、振り返ってみると、こんな馬鹿な連中が日本と言う国を動かしていたんだと思うように、この後同じ様な期間経過した時、その未来の人たちは現代ただいまの日本をどの様に感じるだろうか。
 
維新なった明治の時代について書かれていることを要約してみよう。
徳川幕府は廃せられ、大政は朝廷に帰し、・・・・。 
ここにおいて朝廷ははばかることなく、その大方針に向かってお進みになり、着々として新しい政治を施し得る体制になったわけであります。
しかるに思いもよらぬ差し障りが起り数年に亘る紛糾、いやそれどころではない、血みどろの騒乱が起りました。
明治維新に大功を建てた重臣相互の憎み合いであります。
これは歴史を書いた書の一説である。
1979年に書かれたというから、昭和も末に近い47年。
こんな時期に先に記したような生きた化石のような文章を書く者が残っていたんですね~
全国の土地、人民ことごとく天皇に直属するになったと書いてはいるが、如何に維新に功があった連中とは言っても、それを抑えることが出来なかったか。
この憎しみ合いから幾多の貴重な人材が失われたか、そのために我が国があらぬ方向へと進むに至った、その責任は・・・・
ただ君臨するだけが能ではあるまい。
中國の歴史書史記にこんな言葉がある。
法者天子所与天下公共也
この騒乱を鎮めるのと多少意味が違うが、政を補佐する重臣の内紛を鎮める事の出来るのは天子ただ一人。
天子とて公共の法は守らなければという臣下の諫言に黙って従がう天子こそ天子たるものの務め。
臣下の権力争いを鎮められずして何が天子か・・・・・
秦の始皇帝は側近の奸臣を見極められずに亡びた。
 
この明治の成り上がり者や薄汚い姑息な連中が名を連ねた権力者たちの権力争いを知らなかったわけではあるまい。
 
明治も初めの頃、世界の知識を集め、欧米の文物、制度を偵察するために、 全権大使を欧米に派遣していた。                       封建の昔から戦における論功行賞で内部分裂を起こしたことは何処の国においても起って居た。
それが明治の政権を担う内部で起って居たが、全権使節団を派遣することに端を発して表面化してきた。
いずれも、権力の中枢にいる者たちとは言え、出自が出自、学問教養に欠けるものが多かったとことは推測できる。
木戸光允、大久保利光伊藤博文、そして山口芳尚
出自を思うと出来のいい連中は一人としていない。
幕末の騒乱の時代、新撰組などに襲われ、仲間を見捨てて己は姿をくらます,桂小五郎こと木戸光允、この男、京の警戒がきつくなって身の危険を感じると仲間を見捨てて、国元へ帰ってしまう様な姑息な輩、長州の足軽、中間の伊藤博文、薩摩で少年の頃より西郷に世話になっている大久保。
これらの人選にについて、大久保と木戸について、板垣や井上からクレームがついたという。
これらが、出発するとき、留守の者に念書を書かせた。
何とも馬鹿馬鹿しい、何とも姑息な事を考えるものだと呆れるばかりであるが、その念書とは・・・・・
よく連絡を取る事。
大使出張中は新規の改正をしないこと。
長官に欠員が出ても補充はせず、官吏を増員しないこと。
 
この三人のうちだれが言い出したのか書かれていないが、何とも姑息な事を考えるものか、これが明治の政府の重鎮だというのだから、日本と言う国もたかが知れている。
おおよそ日本人の姑息さ、傲岸さって、この様な処にあるのだろう。
これら三人の傲岸不遜な事、これを黙って見過ごす天子がいるのだろうか。
これを黙ってうけた留守部隊って、度量が大きいのか、馬鹿なのか・・・・
維新直後の激変してやまぬ重大な時期の二年間、何が起こっても何もしてはならぬ、現状維持で、大使の帰還を待てとは、一国の政治屋の為すべきとこではない。
当然無理が出るのは自明の理である。
さすがは無学、姑息、卑怯な成り上がり者の傲慢さが表面化した要求であるし、その時朝廷に残った顔ぶれを見ると日本の政治屋と言うのは矢張りダメなやつの集団だ、とつくづく思う。
因みのその時残った政治屋たちを挙げると、現代に偉大な人物として喧伝される人物であるが、この様な要求を安易に受けるとは現代に伝えられるほどの優れた人物とは思えなくなってくる。
太政大臣三条実美、参議西郷隆盛大隈重信板垣退助、議長後藤象二郎、外務卿副島種臣、大蔵大夫井上馨、兵武大夫山形有朋。
 
現代に伝えられるこれらの人物は優れた明治の指導者たちであると伝えられている。
だが、それもこのような歴史的事実があるとすればその人物評を修正しなければならない。
たかだか大久保や木戸、伊藤程度のものが外遊したからと言って、政治が停滞するのを黙って見ている、こんな政治が何処の国、何処の世界にある。
 
残って、権力の中枢に成り上がったこれらの者よりも、維新にさきがけて、遥かに優れた多くの人材が失われたことに、我が国の悲劇があった。
 
その時に起こっていた問題は朝鮮との外交で、決定的は事態が発生する。
木戸などと言う姑息な輩がしゃしゃり出て、朝鮮の無礼を武力でとがめろと強固に主張する。
逃げの名人が己の命に危険が及ばないとなると論理も何もない、無学そのものが顔を出してくる。
使節を派遣して説得するという、西郷の穏健な主張を、岩倉が蹴ったため、西郷、板垣、副島、後藤、江藤が参議を辞任し野に下った。
これら野に下った連中は残った連中よりもはるかに国の役に立ったであろう人々である。
 
これからまず佐賀の乱がおこり、萩、熊本と乱がつづいて、最後は西郷の鹿児島の乱へと続いていく。
 
公家などと言うものは、京の山水を愛でて、詩歌を楽しんでいればいいのであって、なまじ権力を握ると碌な事をしない。
三条と西郷の制限が外れると早速勝手な事を実行する、それ程権力を行使してみたいのだろうか・・・・
 
岩倉はこのうち行政官の中の輔相という国内行政全般と宮中の庶務を監督する役職に就任。三条実美とともに二人体制での就任だったが、三条は徳川家の処分の全権を任されて西郷隆盛を従えて江戸へ出ていたので岩倉が実質的な首班であった。岩倉は就任早々宮中改革として公家に学問の時間を与えるため、公家の宿直(御所での24時間勤仕)の制度を廃止。また御所内の庶務にかかる人数も大幅に削減した。これらが旧公家層の非難の的になっているが、御一新(明治維新)のためやり遂げねばならないと江戸にいる三条にあてた手紙につづっている。―――――  ウイキペディア
病気を理由に辞職後も、意見書などを出している、如何にも権力志向が治まらなかったようである。―――――――ウイキペヂア
この岩倉と言う男、三条や西郷などの枷がはずれ、己にとって煙たいのがいなくなると直ぐに己の権力を振るいたくなる輩の様である。
あの朝鮮への使節の派遣についても西郷の意見を無視している。
 
明治が維新で文明化した日本の夜明けの様な錯覚を起こすが、現代に偉人として伝えられてる人物の詳細を調べてみると、情けなさが先に立って、どうにもやりきれなくなってしまう。
維新後の歴史は権力内部の争いであったと言っていい。
史記呂后本紀にある様に、権力内部の抗争に明け暮れた漢帝国の内部抗争の様に高祖が崩じた直後の、政権の権力闘争とよく似た状態を呈しているような気がする。
漢では、その権力闘争が朝廷内で行われていただけの事で、その間人々は安穏な生活を楽しんだと書かれている。
明治の時代思いがけない権力を握ったものによる権力行使は民草にまで及んだであろう・・・オイコラ!チョットマテ!は権力行使の代名詞。
 
ただ、倒幕~維新と言っても薩長の連合がなければ難しかった。
その薩長の話し合いは西郷と木戸、当時はまだ桂であったろう。
その間を持ったのが竜馬。
桂小五郎など長州の代表とは言え西郷などと比べると人間が小さい、小さい。
逃げの桂と異名をとる位仲間を犠牲に己だけは逃げてしまう、こんな男が明治の政府の高官に収まるのだから明治政府も人材不足。
薩長の話し合いも桂の人間の小ささを顕している様な、只々相手の非を痛罵するばかりの男であったらしい。
薩長の連合も、西郷の度量の大きさゆえになった、と言えるのだろう。
幕府が大政を奉還して江戸城に無血入城も、官軍に西郷がいなかったら、幕府に勝安房がいなかったら、慶喜と言えども幕府軍を押さえる事は出来なかったろうと言われている。
 
歴史の転換期には多くのものは義を全うするために働く。
新選組会津の人々が歴史の流れに逆行する行動に出たことは事実である。
だが、損得を超えた、正義感から出た彼らの行動には強い魅力がある。
         ――エッセイで楽しむ 日本歴史 文春文庫―――
 
 
参考文献   
物語日本史                       平泉       澄                      講談社学術文庫
 
 
 
 
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