徒然の書

思い付くままを徒然に

地球も日本も人口過多

地球が生まれて46億年だといわれている。
その頃はまだ生き物の徴候すらなかったのである。
人類が生まれたのは五百万年前だといわれている。
人類と言うよりもチンパンジと分岐したアウストラロピテクスと呼ばれる猿人なのだろう。
其れから進化を続けて現代人に近い人間になったのは精々二万年前から一万年ほども前の頃であったろう。
地球が生成され、安定期を迎える頃の地球の自然の資源はどの様なものでどれほどあったのかは計り知ることは不可能である。
科学が発達するに従って地球の自然資源の消費が大きくなり始める事は自明の理だが、其れに輪をかけるのが人間と言う生き物の数が驚くべき速さで増殖していることである。
地球の人口はゆっくりゆっくりと悠久の時間をかけて、1800年代に漸く10億人に達した。ところがその二倍の20億人になるのに、僅か百年で二倍に達した。
悠久の時をかけて人間が10億になったのに、その後わずか百年で二倍の20億に達したということは驚異的であった。
その後三十年、さらに10億人が増えて30億。その後は十年で十億人づつ増え続けている。
2011年には70億に達し、一日二百五十万人づつ人口が増えていることになる。
あと十年もしない内に80億に達する、そんな日は近い。
この膨大な人間と言う生き物は地球の自然の資源を食いつぶしているのは、今までの自然資源の消費とは比べ物にはならないほど大きい。
あっという間に、然も突然に自然資源は枯渇してしまう。
人類の絶滅でもある。
これがインフェルノに書かれた人間絶滅の危機に至るストーリーである。
日本など、この小さな列島に一億三千万人もの人間が蠢いているなど考え様もない程、滅茶苦茶に多い。
可能なら半分は必要ない、いくら譲歩しても七割でも多すぎる。
世界の、あの広大な国土を持つ、国々の人口を我が国と比べてみるといい。
欧州主要諸国、ドイツ、イギリス、フランスなどは八千万~六千五百万である。
国土の大きさを勘案すると、我が国には人が溢れかえっていることになる。
今や目の敵にされている高齢者社会などと言うのは、団塊の世代などと言う言葉がある通り、何十年も前から判っていたことである。
だが、彼らが日本繁栄に貢献したことは疑いもないところであるが、彼らが老境に達するや、さも邪魔者の如く扱う、老齢時の安定生活の一助を担うものとして集め始めた老齢年金、高額ともいえないその国民年金の支払いさえ渋りだす、日本の政治は何を目的に行っているのか、国民は今一度考えてみる必要があるのではないだろうか。
国民年金を削減する同じ国の政治屋の給与は世界に類を見ない高額であり、これもまた世界に類を見ない不可解な政党給付金を、議員一人あたま4000万円もの金が政党に支払われている。
その一部が議員個人に還元されるというから日本と言う国は政治屋天国と言っていい。
戦争直前から戦中にかけて、戦争要員確保のために産めよ増やせよと、躍起になった政府や軍部の阿呆共。
だが、男は徴兵に取られて思う様にはいかない。
それでも普段よりはるかに人口は増えている。
敗戦直後の時代の脅威的な人口増は人間と言う生き物の本性を承知していれば、なるべくしてなった、宿命みたいなものである。
そしてその団塊と呼ばれた時代に生まれた人々が婚姻年齢に達すれば、当然のごとく次の人口の急増が考えられるのは至極当然の成り行きである。
しかし、二つの人口のピークが、その後の日本にどの様な影響を与えるかを考えるのが、政治屋や官僚の当然の義務であろうが、それ程切れる政治屋や官僚がいるなら、日本と言う国は今よりはるかに優れた世界を現出していたであろう。
彼らが国に貢献したことを忘れ老齢に達するや、邪魔者扱い。
一刻、経済が潤った時、阿呆な政治屋のやったことは、多くの取り巻を引き連れて、必要も無い外遊と称する、海外旅行を頻繁に行った。
そこで何を行ったか、海外援助と称して金をばら撒いて歩いた。
己の国の貧困者を放置して・・・
心ある国民は、国民不在の政治屋の行動に不安を感じ、生活を縮小しながら、己を守る事であったろう。
それを放置した結果が今日の狭い国土に溢れかえる人口であり、その行きつく先が少子化なのである。
将来はこの国を支えてきた団塊時代の膨大な人口が負担になる事は自明の事として解っていた。
ただ、己らの先見の明の欠落によって少子化の時代が来ることを見落としていた。
時代の推移や、先の見通しの読めない政治屋と官僚の存在はわが国の専売特許の様なものである。
何の特技も得手も無い、政治屋や官僚の思考過程から脱落していたということに過ぎない。
少子化などと言うのも、安易な政治の付けであることを政治屋や官僚は思いたくはないだろうが、生活の不安を抱えた国民にすれば当然のごとく,子供養育の負担を考えると、当然の結果であると云い得るだろう。
 
この高齢化社会が正常な社会になるのは高齢者が死に絶える事である。
死に直面した人間を再生の見込みのないまま生かして置くだけの医学技術だけは間違いなく進歩した。
それ故高齢者達が死に絶えて、正常な人口構成になるには随分と時を要する。
その時期が20年後か、30年後か・・・
それまでは、今の政治屋や官僚などの器量や頭脳では持ち堪えられまい。
では如何する。
無能な頭でも考える事の出来るのは、姥捨て山へ捨てた高齢者を捨てるだけでは、彼らが生きている限り年金は払い続けなければならない。
ではどうするか、単純な頭であ考えれることは、支給する年金を減額し、各種保険料を増額して、高齢者の生きざまを制限する事、年金を頼りに生きている高齢者は如何なる、考えるまでも無かろう。
権力を盾に、法によって間引くことしか思い浮かばなかろう。
その結果の高齢化社会の責めを高齢者に押し付ける様に、己を傷つけずに高齢者の間引きを図る政策が無能者の取るべき唯一の方法である。
それは今後高齢者が死に絶えるまで続けられるであろう。
 
かの新藤兼人がエッセイ現代姥捨考で、次のように嘆いている。
だが彼のエッセイはまだ二十世紀の終末近くの頃のもので、今の時代よりはもう少しましな為政者の時代であったのだろう。
それでも彼は次のように嘆いている。
 
人は皆、老親を背負って楢山への道を辿っている。
高齢化日本の現在に老人政策はなく、確固たる老人論も見当たらない。
孤独な老人は何を頼りに生きるべきか。
社会は今後も老人を棄て続けねばならないのか。
 
この時新藤兼人は八十四歳になっていた。
楢山節考の姥捨ては貧困で村が立ち行かなくなるのを防ぐための、村の掟だったのだろう。
この楢山節考は今まで敢えて読まない様にしてきた。
感情移入が強すぎて、己の心に重いしこりの残るのが耐えられないと思ったかである。
でも高齢者について何か書こうと思った時読んで見る気になった。
というのも、新藤の随筆に楢山の姥捨てが語られているからである。
 
ただ、この様な風習が歴史を重ねると、捨てる方も捨てられる方も、何故か悟りきったような、淡々とした行いの様に感じてしまっている。
これは、この歴史、繰り返しが当たり前になってしまうと、死さえも当たり前になってしまう、人間と言う生き物の恐ろしいところであろう。
それでも生に執着を感じるものも中にはいる。
楢山に入ると、樹の根方、岩陰に、先に捨てられたであろう者の死骸が点々と蹲っているなどと書いている。
だが、背負われた老母も、その息子も何も感じない。
それを無理やり捨てるということになると、やはり心にしこりを感じる、それも人間と言う生き物の普通の姿。
だが読み進むうちに何か妙な気分になってきた。
この深沢七郎楢山節考は単なるフィクション。
何処かの実際に存在した風習を題材にしたものではなかろう。
こんなことが実際我が国で風習として行われた処があったとはとても思えない。
如何に生活が苦しくとも、我が国の風習は子を慈しみ、親には孝行である。
姥捨てなどと言うことは、年貢逃れの卑屈で悪賢い百姓達の考えた姑息な作り話であったろうと思った。
搾取され続けられる百姓たちの、年貢逃れの、姑息ではあるがささやかな抵抗であったろう。
百姓たちも強かではある。
何故か深沢七郎に騙された様な気がした。
 
閑話休題この新藤の切々とした彼の心の中は、為政者は勿論の事、現に生活している人々の心の内をどの様思っていたのだろうか。
彼は、依然として仕事をこなしており、人との付き合いも十分であったろうが、世の年老いた人々の事を考えると、同じ高齢者として、心に隙間風が吹いていたことだろう。
 
だが二十年前と言うと今よりはいくらかは余裕があった。
現在のように年金を減らし、社会保険料を増額すれば、その結果は目に見えている。
ここでも、政治屋や官僚の政策の失敗、無能さを無抵抗の高齢者に押し付けるという常套手段に出るということなのだろう。
過去、地球上のあらゆる民族に於いて、子供の間引きは有ったとしても、老人の間引きまでは考える事は無かった。
今の政治屋や官僚の無能を隠蔽するために、法を操れることをいいことに法を盾に高齢者の間引きを行い始めたといっていい。
それは、昨今のやり口を勘案すると必然的に、高齢者の間引きに踏み切ったことに通じる。
だがよくよく考えてみると、古来から人間は人間を棄てて生き延びてきたのであろうか。
現代では、人間を山へ捨てはしないが、どこかの施設へ捨てているのではないのか。
だがこの施設へ捨てられる高齢者はまだ幸せな部類に入るのだろう。
本来ならその姥捨てを行った者たちが、介護保険料を支払うべき、当然の事なのだが、我が国の無能な政治屋や官僚は老人は老人同士助け合えとは・・・・
思考過程が全く逆転、欠落している無能さをさらけ出している。
 
さて、老人性の痴ほう症になった老人を、もう植物になったのだから人間の値打ちはないといった医者がいるというが、同じように考えるものも少なからずいるだろう。
高齢者社会の一つの原因は医学の発達などと言うが、医学はそれ程発達はしていない。
西洋では、あの有名な聖なる喜劇を書いたダンテに時代、13世紀には我が国よりはるか高齢な人生七十年であった。
ただ、先の医者の言を借りれば、人間の姿をした植物を生かして置く技術だけは見事に功を奏しているらしい。
それが他の正常な高齢者を経済的に圧迫していることも事実である。
高齢者は高齢者同士で助け合えとは、とんだ言い草だ。
だが、この言葉が政治屋や、官僚役人の偽らざる気持ちであろう。
役人だとて人間である以上、いや生き物である以上、あっという間に老いぼれる。
老いぼれと言われる生き物になって、思い知ることになる。
 
不治の病は依然不治で、難病と呼ばれるものは半世紀前いや一世紀前と全く変わってはいない。
今の医術は機械に頼り、データーを読む技術は進歩したが、昔の医師のように、病人の身体を診察して病気を判断する技術は全くなくなったといっていい。
医学も専門科が進み、専門外の病疾についての知識は昔と比べると遥かに低下している。
その様な医者が開業医として医療に携わると、専門外の疾病については、見落としたり、判断しかねて取り返しのつかないことが、数多く発生しているような気がする。
これは何も開業医だけとは限らない。
余計な診療費用が増えるのはこの様な事にも原因がある。
医療費が増額するのは何も高齢者ばかりの責任ではない。




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