徒然の書

思い付くままを徒然に

日本の伝説

 
遠野物語で夙に有名な柳田國男がその著書日本の伝説の中で、日本は伝説の驚くほど多い国であると言っている。
色々伝説めいたものは小さなころより聞いてはいるがそれほど多いとは思ってはいなかった。
以前はそれをよく覚えていて話して聞かせるものも、何処の地方でも随分といたのであるが、近頃は色々考えなければならないことが多くなった為か、そんな話を喜んで聞く人も少なくなった。
その為次第に忘れたり間違えたりして、昔から伝わる伝説とは違った内容のものになったりする。
と柳田は言っているが、これは柳田が生きていた時代、明治から大正にかけての事だから、その頃よりさらに忙しい時代である現代では、特別な処でない限り伝説の語りなどはほとんど聞くことも出来ないであろうし、伝説などに気を留めるものもほとんど居なかろう。
それで、特別な地方であっても、昔の儘の伝説が残っているとは思えない。
可也変形した形のものであるのかも知れないものが、あるいは伝説として伝わったと思われるものが残っているかもしれない。
 
その柳田の日本の伝説の中に面白いものがあった。
云われてみればなるほどとうなずける様なことなのだが、それは神争いと言うものだそうだ。
神様の喧嘩で、人間はどちらかに味方すると人間にたたりがあるのではと思ったりもする。
 
ところで伝説と民話の違いって何だろうと、考えた人はそうは多くはなかろう。
多くの人は民話も伝説も同じ様なものと思っているのではなかろうか。
小生もその一人であるが、話を聞いてもどちらかなどと考えたことはない。
話の内容によって勝手に民話だ、伝説だと勝手に思っていただけである。
柳田による民話と伝説の違いと言うものを区別しているので、その一部を抜粋してみよう。
 
昔話は動物の如く、伝説は植物の様なものであります。昔話は方々を飛び歩くから、何処に行っても同じ姿を見かけることが出来ます。
伝説はある一つの地に根を生やしていて、そうして常に成長していくのであります。
雀や頬白は皆同じ顔をしていますが、梅やつばきは一本々々枝ぶりが変わっているので、見覚えがあります。
可愛い昔話の小鳥は多くは伝説の森、叢の中で巣立ちますが、同時に香りの高いいろいろの伝説の趣旨や花粉を、遠くまで運んでいるのも彼らであります。自然を愛する人々は、常にこの二つの種類の昔の、配合と調和を面白がりますが、学問はこれを二つに分けて考えてみようとするのがはじめであります。
日本の伝説  柳田國男著より抜粋。
とても面白い見方です、その通りかもしれません。
 
伝説の中に神いくさと称されるものがあります。
日本一の富士山でも昔は方々に競争相手がおりました。
土地の人々は自分の土地の山を愛するあまり、山も競争せずにはおれなかったのでしょう。
大昔、御祖神が国を巡っている時、日の暮れに富士に行って一夜の宿を願った。
ところが富士は今日は新嘗で物忌みしてるからと断った。
御祖神が筑波へ行って宿を請うと、つくばの方では反対に今日は新嘗だから構いませんと泊めてくれた。
御祖神は大喜びで、この山永く栄え一常に来たり飲食歌舞たゆるときもないようにに多くの祝い言葉をくれた。
その為か筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しみ多い山となったのはその為で、富士は雪ばかりが多くて、登る人も少なくて食物にも不自由しているのは、新嘗の夜、大切な客を返した罰だと言っていますが、これはつくばで楽しく遊んだ人ばかりが語り伝えた昔話だろうということのようです。
 
また富士と浅間山が煙比べをしたなどの話も古くには有った様だけれど、今は残っていない。
 
山の神の戦いで有名なのは野州日光山と上州の赤城山の戦い。
古い二荒神社の記録に詳しくその合戦の模様が書かれているという。
日光山方が負けそうになったとき、弓の名手の青年が現れ、神に頼まれて加勢をして、赤城の神を追い退けた。
その戦いをした跡が戦場ヶ原と言い、血はは流れて赤沼となったとも言っている。
誰が聞いても本当とは思われない話ではあるが、以前は、日光の方でこの話を信じていたものと見えて、後世になるまで毎年正月の四日に武射祭りと称して神主が山に登って赤城山の方に向かって矢を放つ儀式があったという。
その矢が赤城山に届いて、明神の社の扉に立つと氏子たちがその矢を抜いてお祭りをするのだと言っていた様だが、果たしてそのような事があったのかどうか・・・・・・
赤城の方の話は分からないという。
赤城山の周辺に於いても、この山と日光山とは仲が悪かったこと、それから大昔神の戦いがあって、赤城の方が負けて大怪我をしたことなどが語り伝えられているという。
それからまた、赤城明神の氏子だけは、決して日光には詣でなかったそうである。
 
神の喧嘩によって、その氏子たちがそれに倣った例は全国にいくつもある。
信州松本の深志の天神様の氏子たちは島内村の人と縁組することは避けたという。
それは天神は菅原道真であり、島内村の氏神武の宮はその競争相手の藤原時平を祀っているからだという。
嫁婿に限らず、奉公に来たものでも長く居ることはなかったと言われている。
時平を祀ったというお社は下野の古江村にもあって、これも隣の村に菅公を祀った鎮守の社があって、昔からその村との仲が悪くて、この様な想像をしたのではないかと言うのである。
古江村では、この二つの村では男女の縁を結ぶと、必ず末が良くない、更に庭には梅の木は植えず襖屏風にも梅の画は描かず、衣服の文様にも描かなかってという。
この天神と時平の社との関係は全国至る所で見ることが出来る。
 
人の怨念と言うものはこのような処にも表れるのかと、人間と言う生き物の怨念の荒ましさをつくづくと思い知ることになる。
何か昔から天神を祀ることのできないわけがあって、村に社があれば藤原時平の様に生前菅原道真と仲の悪かった人の社であったように想像したのではなかろうか。
そこには藤原時平の古塚があって藤原の時平の墓だと言っていたのだろう。
だが、こんなところに墓があるはずもなく、後になって誰かが考え出したものだろうということのようである。
菅公の天神は祟り神であるから、天神に対して不始末や裏切りがあると祟られることは十分にありそうである。
祟り神の恐ろしさは現代に於いても言われることがある。
将門も祟り神で、将門の首塚を動かそうとして、それに携わった者にたたりがあったとはよく耳にする話である。
こんな伝説はあまり歓迎したくはありませんが・・・・・
 
参考
日本の伝説        柳田國男        新潮文庫
 
 
 
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