徒然の書

思い付くままを徒然に

メソポタミア文明その弐 シュメール文明

だがしかし、モーゼ五書とは言っても、モーゼにバビロニア文明に伝えられた、大洪水をパクッてものを書けるほどの頭があったとはとても思えない。
ずう~っと後年になって、旧約が書かれる頃、シュメールやバビロニア楔形文字を研究していたものの手になったと推測する以外にない。
ただこのギルガメシュ叙事詩に書かれた、大洪水をパクッた方舟の書かれた時期が何時かということなのだが、これも推測の域を出ないであろう。
旧約聖書自体あるいは物語などは歴史的事実に忠実に書かれたものではないし筆者自体、誰が書いたのかさえ定かではない。
年代や時期についての数字でさえ、史実とは関係なく、いい加減に記されたものと考えるほうがいい。
おぼろげな伝承を頼りに書かれたものが連なっていると見た方が良い。
物語の史実を知りたいと思えばその下になったものを探る方が、いくらかでも史実に近付くことが出来るかも知れない。
出エジプト記にしても果たして本当にその様な事が行われたのか、大いに疑問がある。
ただ、なぜこのような出エジプト記などと言うものが書かれねばならなかったのか、それを探る方が大切なのかも知れない。
歴史的事実に関心を持って、旧約聖書を読もうとするとき、十分注意する必要があると改めて感じさせられた。
例え聖書に書かれたことが史実であったとしても、聖書以外それを裏付ける史料がないものでは、歴史の一コマとする事は危険である。
 
さて、方舟に戻ろう。嵐が収まって、ノアの方舟が止まったのは、アララト山の頂上だと言われている。
このアララト山イスラエルの地とは凡そ関係のないところ、トルコ東部からアルメニアにかけての5000メートル級の山、そんな山の頂上にまで、如何に大洪水とは言え、洪水が達すると言われてもとても納得でき様筈もない。
このアララト山に何度も調査団が派遣されて残骸探しが行われたという。
何とも正気の沙汰とも思えないことが現実に行われたとは、驚くばかりである。
富士山ならば、すっぽり飲み込まれてしまう様な地球的規模の大洪水であるならば、どこかに必ずや痕跡をとどめていよう、と考えての事かも知れない。
尤も、アトランティスが海中に没して何処だかわからないという、不思議な惑星地球だから、そこに住む摩訶不思議な人間と言う生き物が考える事だから、驚くにはあたらないのかも知れないのだが。
いずれにしても、事実的史料がない限り、人間と言う不思議な生き物が考え出した、幻想の世界と考えた方がいい。
 
閑話休題、古代シュメール文明を記したと言われるギルガメシュ叙事詩、その主人公ギルガメシュウルク都城の王で、力強き英雄ではあるが、暴君でもあった。
ウルクの都の人々から怖れられた存在であった。
この叙事詩はそのギルガメシュ王の冒険譚である。
この叙事詩の中でも、神と言われるものは人間に対する思い遣りと言うものが無く横暴で、始末に負えない存在として描かれている。
ギルガメシュに振られたイシュタルと言う女神の求めに応じて、天の牛と言うものを地におろし、そのために多くの戦士が犠牲になる。
この天の牛を殺したために、ギルガメシュの友エンキドウは死ぬことになる。
天の牛を殺したものは死ななければならないのだという。
 
ここでエンキドウとは何者と言うことに言及しよう。
ギルガメシュウルクの王ではあるが暴君で、それに耐えられなくなった人々が天なる神々に訴えた。
神々はそれを聞き入れて、大地の神アルルに善処する様に命じた。
女神アルルは粘土からエンキドウと言うものを作り上げるのだが、彼は初めは殆ど野獣と変わりないものであったが、人間らしい心に目覚めて、ギルガメシュに挑んでいく。
両者大格闘をするが両方が相手の力を認め合い、以後親友の付き合いをする。
そうして、ギルガメシュに代って天の牛を殺して、死んでゆく。
 
その後、永遠の命を求めるギルガメシュは古都シュルバックの王ウトナビッシュティムのみが不死の生命を有すると知り訪れるが、彼の答えは失望するものであった。
そこで、その昔あった大洪水の事がウトナビシュティムによって語られる。
エアの神の言葉によってウトナビシュティムは四角の船を造り危険から逃れることが出来た。
今、伝わっているギルガメシュ叙事詩のテキストはアッシリア版とバビロニア版を主とした、全体で3600行に及ぶものだが、凡そその半分しか残っていないらしい。
その為、翻訳は単なる語学的言葉の移し替えだけでは意味を為さなくなってしまう。
訳者は残されたものからの推定をも交えた編集をなさなければ、全体の読み物としての用は為さなくなってしまう。
訳者によって様々な編集が為される可能性は非常に高い古代文学と言えよう。
このギルガメシュ叙事詩は一つの粗筋に様々なエピソードが加えられたもので、この大洪水もその一つと言えるのだろう。
 
ここでウトナビシュティムが語った大洪水の場面に話を移そう。
ウトナビシュティムはギルガメシュに向かっていった。
ギルガメシュよ、お前に秘事を明かそう。
そして神々の秘密をお前に話してやろう。
お前も知っているシュルバックの町だが、ユーフラテスの河岸に位置している古い町だが、その中には神々が住んでいた。
メソポタミアには洪水前五つの町が存在した。
シュルバックはその中の一つの町である。
彼ら神は大なる神々に洪水を起こさせたのだ。
そこにいたのは彼らの父たる神アヌ、他多くの神。
彼らは葦屋にむけて叫んだ、家を打ち壊して、船を造れ、持ち物をあきらめ、お前の命を求めよ。
すべての生き物の種子を船へ運び込め、お前が作るべきその船は寸法を定められた通り作らねばならない。
間口と奥行きは同じにせねばならない。
七日目に船は完成した、進水はは困難を極めた。
家族や身寄りのものすべてを船に乗せた。
野の獣、野の生き物、すべての職人たちを船に乗せた。
夜には苦しみの雨を降らすぞ、天気の様子を見たが、天気はすさまじく見えた。
私は船へ入り入口を閉めた。
六日と六晩に渡って風と洪水が押し寄せ、台風が国土を荒らした。
七日目がやってくると、洪水の嵐は戦いに負けた。
海は静まり嵐は収まり、洪水は引いた。
空模様を見ると静けさが占めていた。
そしてすべての人間が粘土に帰していた。
ヘラ屋根と同じ高さに草原があった。
蓋を開くと、光が顔に落ちてきた。
山は船を捉えて動かさなかった。
一日目も二日目も・・・・・七日目がやってくると、私は鳩を放してやった。
・・・この後もウトナビシュティムの話はまだまだ続く。
神々の師匠である勇ましき者が何故考えなしに洪水などを起こしたのだ。
罪あるものには彼の罪を、恥あるものには彼の恥を・・・彼の命が断たれぬ様に寛大たれ・・・ギルガメシュ叙事詩11書板の訳から抜粋。―――
罪あるものには罪を、恥あるものには恥を問えばいい。
善良なすべての人間を死に追いやることはない。
それが本来あるべき姿の神と言うものであろう。
何処の神も、人間にとって益するものとばかりは言えない様だ。
現代の此の世に於いて七曜で一巡りするのは、聖書に云う様な七日でこの世を作り上げたからではない様である。
このシュメールの世ですでに七と言うものが一つの区切りとして使われていた様である。
旧約聖書の方舟のノアは、アダムから数えてちょうど十代目。
この頃、世の中は悪に満ち満ちていたと書かれている。
これは神の言い分で、人間共が悪行の限りを尽くして堕落いた訳ではない。
神にすれば己が作ったのだから人間共は、神を信じるのが当たり前と思い込んでいた。
己を信じない者は神への冒涜、人間の堕落と受け取った。
己にとって都合の悪い人間は次々に抹殺する様な残虐無情、傲岸な神を人間共は見通していた。
この様な神を信じるものなどいると思う方がおかしい。
人間共が神を信じないこと、それを悪行に満ちていた、にすり替えた神と言うものの陰険さ傲慢さを顕すものと言えよう。
それで神は己を信じない者は滅ぼしてしまえとなった。
ただ神に対して疑問を持った者たちを滅ぼすために、すべての人間の抹殺に走った。
ただ一人、己を信じたノア一族だけは助けよう。
これがノアの方舟の真相であろう。
だが、何故大洪水など起こりようもない地で、メソポタミアの伝承の大洪水を取り入れる必要があったのか?
様々な事が考えられるではあろうが、それはあくまで推測で、裏付ける史料とてない時代の作り事と言うほかはないのであろう。
ソドムにしても、バベルにしても、この大洪水にしても、このヤハウエーと言う神、余程己の造った人間に不満を抱いていたのだろう。
丁度、シュメールの大洪水伝説が格好のモデルになった。
シュメールの人々にとっては迷惑な話であはあるのだが。
旧約聖書はこの方舟の大洪水に限らず、出エジプト記にしても、謎に満ちた読み物ではある。
尤も、モーゼが書いたと言われるモーゼ五書の創世期にしても、出エジプト記にしても、モーゼの陰湿で、高慢な性格がよく出ているような気がする。
己の信仰と信念だけで、多くの人間を引き連れて、只々神に阿って、40年も彷徨った無能な人間の人間像が見える様な気がする。
引き回され、野の果て、荒野の果てで、命を落としたものが哀れ。
 
 
参照文献
旧約聖書の謎                  長谷川修一著                  中公新書
ギリシャ神話                  高津春繁訳                      岩波文庫
 
 
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