徒然の書

思い付くままを徒然に

魏志倭人伝で思う事 ~その壱~

 
我が国の記紀は勿論の事、中国の史書と言われるものでも、偏向が至る所に現れて、その虚実をどの様に見極めればよいのか判断は難しい。
陳寿が書いたと言われる、魏書、蜀書、呉書、の三国志陳寿が一から書き記したものではない。
それぞれの先行する史書に依存している部分が多い。
ここで使う偏向と言う言葉は歪められた真実とは言えない記述を意味する。
 
東夷伝倭人の条に関する部分でもそれは例外ではなかろう。
陳寿にとっては、倭人の条について史料といえば、先行する史書あるいは使者の書き残した報告書の類ぐらいが、参照資料であったろう。
曹魏邪馬台国の地図上の位置関係さえ正確なものが、頭の中にあったとはとても思えない。
その当時、倭国がどこに位置するのか三国志・魏書にとっては重大な問題ではなかった。
ただ、使節の遣り取りが行われていた関係上、旅程などについては正確でありたい。
とは言っても、邪馬台国以外の国々についての位置関係や詳細について正確である必要はなかった。
 
魏志倭人伝などと言っても、邪馬台国を記すため専門に書かれたものではない。
三国志魏志三十七万字に及ぶ記述の中のわずか二千字ほどで、ほんの0.5%にしか過ぎない付け足しの、単なる東夷伝倭人の条である。
その三国志自体が変更に満ちたものであれば、付け足しの倭人の条などは現代のわれわれが、当てにして研究する方が間違っているのかも知れない。
偏向に満ちた、過去の文献を検証するには真実の書かれた部分がどれか、どれほどあるのか、見つけっ出すのは殆ど不可能に近い。
それを裏付ける確かな資料がない限り。
この偏向のある倭人条から、偏向に満ちた我が国の書紀を補おうとするなどはどれほど危険な事か・・・・・
倭国と言うか邪馬台国と言うのか、古く江戸の頃より百家争鳴、何とも騒がしいことではあるが、半面全く実りのない議論の様な気がする。
推理に推理を重ねたものには真実に行き付くことなど及びもしない。
彼らにしてみれば飯の種だから仕方のないことかもしれないが・・・・・・
 
倭国への行き方などが最初に書かれているのだが、この当時の記述者の頭の中にあった位置関係即ち地図は現在見るものと同じ姿のものであったのだろうか。
90度あるいは270度回転させたものであったら、方角や距離は全く違ったものになってしまう。
ここに倭人伝の最初の訳を掲げてみると、東だ、南だなどの方角が頻繁に出てくる。
それと、距離何千里などという文字も見えるが、換算すると現行の何キロになるのかもはたして、どれが正解やら解らない。
我が国、後世の研究者から、方角方向や里程の換算に関しては後の述べる様な暴論さえ出没する。
倭人条の記載自体、里程であったり日程であったり、記述の仕方が一定していないのは、確たるものが無かった記述者の自信のなさの表現であろう。
この三国志を書いた男、陳寿が、実際に踏査した訳ではないし、地理的な専門知識も持ち合わせてはいなかったろう。
この三国志には裴松之注と言われる、膨大な注がつけられていることである。
倭人条も曹魏の魏書の一部であるから注はついていたであろう。
いずれにしても、この様な史書の編集記述には編纂の際に恣意が入ることは避けられない。
 
倭人条の最初の部分は次のように書かれている。
倭人帯方郡の東南の大海中に在り、山島に拠って邑落国家を為している。昔は百余国、漢代には朝見する者がおり、今は使訳が通じるのは三十国。
 
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。
初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、四方は四百余里ほど。土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴する。
また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ばかりの家あり、やや田あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市糴す。
――魏志倭人伝 石原道博編訳 岩波文庫による。 
これを読むに地図の姿如何で全く違った倭国が現れてくることになる。
邪馬台国の位置にこだわるあまり、中国の古書に振り回されて、倭人条に書かれた帯方群の東南の大海中に在りが、いつの間にか会稽群東冶県の東方海上のそんするになってしう。
これを地理的にいうと現在の沖縄あたりであるらしい。
いずれにしても魏志倭人条などと言う代物、虚実が入り混じり、それを見極める事自体が困難な作業である。
陳寿の頭の中は己の希望的想いと事実とが入り混じって、書いた己でさえ虚実がはっきりしなかったのではなかろうか。
こんなものでも頼りにしなければ我が国の古代が解明できないとは実に情けない。
 
史書と言われるものに偏向が含まれるのは、我が国の記紀を見ても明らかなように、倭人条においても当然偏向はあるものと考えて推理を進めなければならない。
三国志に至っては同時代史であり、陳寿自らが仕えた蜀漢をはじめとする三国の歴史を関係者が生存している西晋時代に著した。
このため、差しさわりがあって書けないことも多く、また内容も簡潔に過ぎた。
その為に、劉宋の文帝は裴松之三国志に註を付けさせた。
と言われる様に、三国志自体何処まで信用していいものか確かではない。
様々な関わりに影響された史書などと言うもの自体が問題なのである。
陳寿は自らの主観と政治的状況によって、元となった史料を取捨選択して、倭人条を書いている節がある。
中国の夷狄伝は中華の栄光を示すために書かれる部分である。
倭人のために事実を記録している訳ではない。
従って儒教経典の理念に従って記録を取捨選択して、あるいは事実を創作して記述している。
陳寿倭人条に書かれた倭国の習俗はすべて事実が書かれている訳ではない。
儒教の理念に基ずく記述も多く含まれている。
倭人条から邪馬台国と位置を探る論争で、倭人条の倭国への行程に於いても、出発点から論理的に記述に従って追い詰めるのではなく、己の推理するところから逆に辿り、方角や里程の換算を都合の良いように按配しながら、邪馬台国の位置を定めようとする者がいるのには驚かされる。
また、全く真実味のない日本書紀の記載を考慮の重要な柱にしようとする者がいるのは本当に我が国の歴史を解明しようとするのだろうかと疑問に思う事さえある。
当時の漢魏の里制は一里を四百三十四メートル、であるが、己の意図するところとは合わないとして、何の根拠もなく、一里を七十五~九十メートルの短里を倭人条は用いているとして計算する輩まで出てくる。
こんなのが学者でございとしているのだから、我が国の学問もお粗末と言うほかはない。
特に水行の場合、どの様な船で、どのような航海をしたのかは定かではないが、一日にどれ程進むのか、考えたことがあるのだろうか。
表示された里程の換算によって、自分の思うところへ行きつかないと、その換算基準を勝手に変えてしまう、何と涙ぐましい努力だろう。
何か子供じみてさえいる。
それが国体護持を堅持するためのものと言うのだから、哀れと言うほかはない。
 
江戸時代の千石船で、難波から江戸まで帆走するのに風待ちなどで、三日や四日動きが取れないことはざらにあったというより至極普通の事であった。
倭人条にある如く、水行十日とは在っても確実に十日で行き来できたとは思えない。
実際の状況を知らぬものが、机上の空論で倭人条の行程を推理しての記述からは正確な地理をつかめるとはとても思えない。
女王国の東に国があり、海を渡ること千余里、また国がある、いずれも倭の種だとしている・・・・その南に侏儒国があり、女王国から離れる事四千余里、裸国があってさらにその南東で、船で行くと一年で至る。
もう、ここまで来ると、倭人条といえども信頼の外、編纂者の資質を疑いたくなる。・・・滅茶苦茶と言うほかはない。
この様な記述があっても、この倭人条を信じると云うのだろうか。
国体護持を標榜して、無理やり邪馬台国の所在を云々しても意味はなかろう。
 
参考文献
魏志倭人伝の謎を解く                渡邊義浩著                      中公新書
魏志倭人伝                                石原道博編訳                  岩波文庫
日本神話と古代国家                   植木次郎著                 講談社学術文庫
 
 
 
 
 
過ぎ去りし思い出
 
 
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