徒然の書

思い付くままを徒然に

遠野物語の神々

 
古くは、天武や藤原一族が記紀の作成に当たって、為したような改変や破棄などの作為が為されていない民間の伝承だけに、遠野物語民俗学的にも貴重な伝承を集め、記したものだと言えよう。
我が国の全国に散らばる民俗、風習の多さは驚くべきものがある。
遠野に限らず同じ様な話は全国至る所で見聞きすることが出来る。
日本人の心の故郷なのかもしれない。
 
遠野物語の遠野の家々は曲がり屋でよく知られているが、遠野一郷の家の建て方はいずれも大同小異である。
その間取りなどを見ると、殆どに厩が造られており、馬と人間との強い関わりがあった。
あるいは、この地方を旅して最も心とまるは家の形のいずれもかぎのてなる事なり、などと書かれたものも見える。
 
我が国の人々が、それぞれの土地での生き方、親から子へ伝えられたことがらや、それぞれの愛情や生き方はどんなであったろうか・・・・・
この様な古い伝承を知るにつけ、我が国、日本人の様々な生き方や、来世観はよその国のただ一つの神を信じる人々とは少しばかり違っているように思う。
我が国の文明が如何に発達しようとも、まだまだ人々の心の中には、盆や彼岸の時期に帰ってきて、古い先祖たちや、今の世を生きている人々と、一堂に会して歓談することを信じ、それを楽しみにしながら、世を去っていく、それが我が国の人々の心の内なる思いなのではなかろうか。
盆には、迎え火を焚き、逝った人々を迎え、送り火を焚き次の逢瀬を楽しみに送り出す、そんな心が日本人の心の内に未だ残っているのだろう。
遠く天に昇って、残されたものの幸せを願って、見守っている。
それが先祖から延々と伝えられた、我が国の人々の心の内に、秘められた思いなのではなかろうか。
様々な言い伝えや伝承はその様な思いが様々な形になって、言い伝えられて来たのかも知れない。
日本人の持つ曖昧さって、あまり好きではないけれど、そんな曖昧さがあるからこその古い伝承が残っている様な気がしてならない。
 
遠野の部落には必ず一戸の旧家があり、オクナイサマと言う神を祀っている。
その旧家を大同と言っている。
この神は桑の木を削って顔を描き、四角い布の真ん中に穴をあけ、これを上から通して、衣装とする。
正月の十五日には小字中のものがこの家に集まって、この神を祀る。
オシラサマと言う神がある、この神の像も同じ様にして作り、同じように正月の十五日に里人が集まって、祭りをする。
古い家になるとこの祭りが何十年も続き、何十枚もの衣装を着たオクナイサマもあるという。
 
物語本編自体に記されたものはほんの僅かであるが、このオシラサマの拾遺集には結構さまざまな事が書書かれている。
 
柳田國男が聴き、書いた遠野の様々な神の伝承をそっくりそのまま覗いてみよう。
明治末期に書かれたものではあるが、特に原文そのまま読んでも現代口語とさしたる変わりはない。
今の土淵村には大同という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞という。この人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止まれる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪くみて斧をもって後より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。
オシラサマというはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎という人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今いま附馬牛村にありといえり。
 
オクナイサマを祀れば幸多し、と言われている。
土淵村大字柏崎の長者阿部氏、村にては田圃の家という。
この家にて或る年田植の人手足らず、明日は空も怪しに、わずかばかりの田を植え残すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方よりともなく丈低き小僧一人来たりて、おのれも手伝い申さんというに任せて働かせて置きしに、午飯時に飯を食せんとて尋ねたれど見えず。やがて再び帰りきて終日、代を掻きよく働きてくれしかば、その日に植えはてたり。どこの人かは知らぬが、晩にはきて物を食いたまえと誘いしが、日暮れてまたその影見えず。家に帰りて見れば、縁側に小さき泥どろの足跡あまたありて、だんだんに座敷に入り、オクナイサマの神棚のところに止どまりてありしかば、さてはと思いてその扉を開き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由。
 
コンセサマを祭れる家も少なからず。この神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石または木にて男の物を作りて捧ぐるなり。今はおいおいとその事少なくなれり。
 
神話とか民族的伝説、伝承とかいうものは、本来口から耳へ、耳から口へと伝えられしものが伝承として意味があるので、書かれた伝承などは記録者の目的や都合で、整理されあるいは変更されたりする可能性もある。
 
柳田國男自身序文で述べている様に、口述者は話し上手にはあらざれども、自分もまた一字一句をも加減せず、感じたままを書きたるなり。遠野郷にはこの類の物語は数百件もあるならん。
遠野よりさらに物深きところには無数の山神、山人の伝説やあるべし。
と述べている如く、口述のままを書きとった。
伝承物を文字にする時には一番大切な事であると思う。
我が国の伝承された物語はまだまだ多くあり、これなどはほんの一部だと言いたいのであろう。
 
拾遺によると・・・・
オシラサマの由来も土地によって少しずつ差異がある。
附馬牛村の伝説の一つには、天竺の長者の娘が馬に嫁ぎ、これを怒った父親が馬を殺してその皮を松の枝にかけておくと、娘がその下に行って恋い慕って泣いていると、皮が翻って落ち、娘を包んで天に富んだという。
 
遠野の町辺りでいう話では、昔ある田舎に父と娘がいて、娘が馬に嫁いだ。
父親が怒って馬を桑の木につないで殺した。娘はその皮で船を張り、桑の木の櫂であやっつて海に出た、後悲しみに死んで海岸に打ち上げられた。
娘の亡骸から湧き出た虫が蚕になった。
 
土淵村の一部では、父親が馬を殺したのを見て、娘は悲しんで、父親が後々困ることのないようにして、出ていきます。
春の三月十六日の夜明けに庭のうすの中を見てくれるように・・・・
父を養うものがある方と言って、馬と共に天に飛び去った。
 
おしら様は決して蚕の神様として祀られるだけではないという。
目の神として、女の病の神としてまた子供の神としても祀られているという。
 
オシラサマについて面白い逸話が載っている。
附馬牛村の老爺の家にオシラサマがあったが、このオシラサマは物咎めばかりが多くて少しもご利益のない神だ、鹿を食うな肉を食うなだとやかまし事ばかりをいう。
それでこの爺様、オシラサマを鹿肉を煮ている鍋の中へ投げ入れると、オシラサマは自分で鍋から飛び出して、炉の中へ落ちたという。
家人は大切に祀ったのだが、後にこの家が焼けた時、神は自分で飛び出して焼けなかったという。
気仙の某家では家にオシラサマがあって、鹿肉を食えば口が曲がるというのに、肉を食ったところが本当に口が曲がってしまった。
とんでもないことをする神様だと、川に流したところ、流れに逆らって上がってきた。
これを見て詫び言をして持ち帰ったが、曲った口は治らなかったという。
 
オシラサマは狩りの神様として信じているものも多いという。
狩りの門出の折にはオシラサマを手に持って拝むべしという。そのむきたる方向に必ず獲物の有と言う口伝があるらしい。
 
この様な遠野にいる神と民衆とは実に密着している様で、信じる者信じない者夫々であるが、それぞれの神に対する深い信頼が、心の奥深く根付いていれば、神の助けが現れるのであろう。
何も居もしない神を拝むよりも、地に密着した何時も心の中にいる神を大切にする方がどれ程よいか。
 
 
 
参考文献
柳田國男        遠野物語            角川ソフィア文庫
 
 
 
 
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