徒然の書

思い付くままを徒然に

古典にみる世の不条理

 
我が国以外の国々の神話に現れる神々は実に人間臭い。
恐らく、我が国の史書と言われる記紀にしても、書かれた当時から千数百年も前の事を書いているのだから、とても史実などと言えるものではない。
神話と呼ばれる読み物やギリシャの吟遊詩人が歌い語った物語は、書かれた当時の人間が、恐らくモデルになっているのであろう、そんな気がする。
そんな神話に登場する神々は人間との交流があって、実に人間臭さを見せてくれる。
 
ところが旧約聖書で語られる(一つの宗教で神と呼ばれるものは草々沢山あるわけではないから、新約に出てくる神もおなじであろう)神と呼ばれるものは実に陰険で、嫉妬深く疑り深い、この世の悪の権化みたいな性格の持ち主。
ただ崇め奉ることだけを要求する。
ところが、この神と称するものに、忠誠を誓って、云うがままに行動する人間と言う生き物が存在する。
己の作った生き物と言う生き物を殺戮し、僅かに残ったのが、己に従順なノアとわずかな生き物・・・・・・
その後に、神に忠誠なのがノアの子孫、アブラム(後にアブラハムと呼ばれる)と言う男。
この男の系譜から、聖書に登場する様々な人物が出ることになるのだが・・・・
この男と神との出会いは、ある日突然神の声が聞こえたと言う。
 
主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
旧約聖書創世記
それからこの男の神への盲信が始まる。
この世の中、不条理に満ち満ちているとはいえ、神の不条理な要求を何の抵抗もなく受け入れる愚かな男の行動に云いようのない哀れさを感じる。
宗教の恐ろしさ、人間の盲信の恐ろしさを垣間見て、現代の人間が、新興宗教にのめり込んで、すべての財産をつぎ込み家族に塗炭の苦しみを与えた話を思い出したからである。
この男、家族を生贄に捧げけることをしなかっただけ、まだ救いようがあったのかも知れない。
ところがアブラムと言う愚かな男、神に試されて己の長男を生贄に捧げ、焼き殺そうとする。
この男、神の言葉に振り回されて、様々な処をほっつき歩くのであるが、ある時、神はとんでもない要求をする。
 
神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
旧約聖書創世記22)
この男こんな不条理な要求をも、諾々として受け入れ・・・・・
その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時・・・・・・
旧約聖書創世記22)
如何に神を盲信していると言っても、こんな不条理な要求を受け入れる親は何処の世界にいるだろうか。
子殺しではなく、信仰のために己に死んで見せろと言うのならまだ話は分かる。
のちのイエスの例もあるのだから・・・・・
そのイエスでさえ、死に直面して相当に煩悶した様子が描かれるにおいては、この男、余りにも淡々と、簡単に子殺しを行おうとしている。
 
不条理と言う言葉を使ってみたが、そもそも不条理とは一体どんな意味があるのだろうか・・・・
広辞苑を見ると・・・
道理に反する事。不合理な事。背理。
実存主義の用語、人生に意義を見出す望みがないことをいい、絶望的な状況、限界状況を指す。
 
人間がこの不条理に直面した時どのような行動を選ぶだろう。
 
ギリシャ神話にもこの不条理な行動についての物語が語られている。
シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、地底の無明の闇の中に閉じ込められてしまう。大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。
これが永遠に続くのである。
 
この地底の闇の中多くの仲間がいるのだろう。
タンタロスと呼ばれるものも、永遠の責め苦を受けている。
後の人々は、タンタロス状態などと呼んで、その不条理にどの様に対応するか悩むことになる。
この地底の闇の中の話はわが国の伊弉諾伊弉冉尊の話とよく似た話がある。
それはまたいつの日にか・・・・・・
 
この不条理な刑罰をどのように受け止めるか・・・・・
それは人それぞれであるが・・・・・
拒否するか、理性を失わせて考えることをやめるか、不条理を素直に受け入れるか・・・・
人間生きていくには、この不条理とどこかで対面しなければ生きてはいけない。
このシーシュポスの神話をアルベール・カミュが書いているが、とても難しいものを含んでいるように思う。
 
このカミュのシーシュポスの神話は大戦中に出版されたと言う。
何か訴えたいこと、含むところがあったのだろうか・・・・・
まだ、このカミュの神話は読んだことが無いので何とも言えないが、近いうちには読んでみたいような気がする。
 
拒否するとすれば己を無くするしかないし、盲信するには理性を捨てなければならない。
ただ、シーシュポスの様に、受け入れてしまえば何か悟り感じる事があるかもしれない。
 
人間悩み苦しむために、神や仏を信ずるのではない、ただひたすら信じるのは安寧を得たいからである。
その弱い心の人間を試そうなどと言う神は、信ずるに値しない。
 
旧約聖書以外は何処からか、神と称するものが現れて、様々に動き回り、活動するのであるが、実に人間臭い。
その人間臭い神の行動の中に、範とするものがあればそれでいい。
旧約聖書の神は、一度として姿を現すことなく、人間を操るだけの存在であるが、次から次へと操られる人間が現れる。
ギリシャの古典も我が国の古典も似たような話の筋になることが多いが、この神々実に人間臭い。
日本の神々の様に尊大にふんぞり返ってはいない。
それ故か神国などと言われても、素直に信じることはとてもとても、・・・・・
 
ギリシャの神々の性根や考え方や行動は人間のそれ、そのもの・・・・・
とても親しみを感じる。
その行動の中に、見習うべきものを見つけ出せればそれでいい。
良いにつけ、悪いにつけ、それは己で選別し、淘汰すればいい・・・・
不条理は不条理として受け入れ、その中に何かを見つけ出せればそれでいいのかも知れない。
 
 
 
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