徒然の書

思い付くままを徒然に

人間ってバカな生き物だよね、その二・・・・・・

 
戦は太古の昔から、何時でも時の権力者や執政どもの愚にも付かない思い付きから始まる。
如何に時代が進んでも、人間の性根と言うものは変わらないものと見える。
その度に国家は疲弊し、民草は肉体を損ない、精神を患い、黄泉の国へと導かれるものも多い。
幸か不幸か生き残った者も、塗炭の苦しみを味わわされる。
 
敗戦の苦しみを知らぬ輩が、主導権を握ると、強力な軍隊を持ちたがる。
相手を恫喝するために・・・・・・
これは何時の世も変わらない、現代の我が国に於いても・・・・・・
その結果が残るのは荒廃した山河のみ・・・・
 
 
またぞろ荒廃した山河を国民の目にさらそうと言うのか・・・・・
 
孫子の兵法は戦だけの法ではない。
治国の書でもある。
凡庸な頭であっても、それくらいは理解できるように書かれている。
権力争いに現をぬかすときがあるのなら、少しは頭を充実させては如何だろう。
孫子に学ぶことは、まだまだ多いはずである。
何も、戦争を前提とする軍備を増強して、他国を恫喝し、日本を狂気の世界に引きずり込むことはなかろう。
共同自衛だ、集団自衛だなどと民草を幻惑するような言葉を使って、戦力を増強し様など、姑息に過ぎよう。
 
「明治以来プロシア兵学の忠実な信奉者として戦い続け、ついに未曾有の惨敗を喫した日本においても、われわれはあまりにも「孫子」を無視しすぎたのだ、とする後悔の弁を聞くことができる。」
 
先の大戦でも、兵站が伸びすぎて、補給がままならず、置き去りにされた兵が、どれほどあったか、その兵たちの気持ちを思い知るがいい。
無能な上官に引きずられて、全滅の憂き目にあった者たちがどれ程あったのか・・・・・
 
戦と言うものを知らない世代が国を動かしている、そのたびに世界戦争が始まっている。
戦争の悲惨さを知らない世代が政治の主導権を握ることは実に恐ろしいことである。
 
自衛のための軍備などと、実しやかにいうのだが、大東亜戦争も時の為政者東条英機に言わせると、自衛のための戦争だったという。
自衛と侵略の区別などあって無きに等しい。
最高裁の裁判官よ、よく聞くがいい。
東条英機大東亜戦争は自衛のための戦争であったと言っている。
自衛隊は自衛のための組織だから合憲であるなど、侵略と自衛の差は何だ。
最高裁の判事たちよ・・・・
単なる概念の区別で、平和憲法の奥に秘められた真の趣旨を返曲げるではない。
司法が行政に阿っていてどうする、三権分立の意味がなかろう。
それでは司法の独立など夢のまた夢になってしまう・・・・・・
 
生還のない特攻出撃
執政や軍部が命じた特攻作戦、
我が国は、こんな生還の望みのない戦いをすることを平然と命ずる者が、国を動かしていると言う何とも情けない民族である。
この様な狂気とも思える、執政や軍部の命令に、諾々と従って黄泉へ旅立った多くの若者が哀れ・・・・・
 
こんな救いのない命令を発する連中の遺伝子を引継いでいる、我が国の執政どもが、また同じ過ちを犯さないと言う保証はない。
 
菊水作戦と呼ばれるものの犠牲になった者だけでも・・・・・
作戦は第一号(194546-11日)から第十号(621-22日)まで実施され、その後も終戦までの間、断続的に特攻が続けられた。沖縄諸島周辺での特攻作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死した。
                            出典不明
こんな救いのない政治は御免蒙る。
こんな実りのない特攻を強制され、黄泉へ旅立った彼らが生きて、我が国のために尽くしていたら、もっとましな国を作っていただろう。
 
次にあげる文は戦争犯罪人東条英機が書いたと言われる手記の一部である。
若者に檄を飛ばしているのであろう。
本当に神国だから、何とかなると思っていたのだろうか・・・
驚くべき頑迷さ、救いようのない狂気。
馬鹿の骨頂と言うしかない。
こんな輩が、我が国に存在したのだと言うことを、はっきりと自覚する必要がある。
 
こんな輩が、またぞろ現れないとはだれが言い切れる。
それを阻止するのは民草しかいないと言うことを、各々肝に銘ずるべきであろう。
馬鹿も休み休みにしてほしいもの・・・・・
 
東条の手記と言われるもの・・・・
ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。
我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。
忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。
強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。
しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。
                          東条英機の手記
                            出典不明
 
我が国の古の者たちは、戦国の世から戦が亡くなり、戦うことを忘れてしまって、太平楽を決め込んでいたのは、何百年も前ではない。
我が国に住む、いや世界の99.999%の人々が、戦のない世界を望んでいることは明らか・・・・・
世界に散らばる、ほんの一握りの輩のために多くの人々が戦場に駆り出され、あたら命を散らし、家族を悲嘆の底へ突き落している。
その一握りの輩は、昔の武将の様に先陣を切るのではなく、安全地帯で踊っているだけの太平楽・・・・・
徳川の世は、鎖国であった、封建的だとか、政は朝廷が行うべきだ、とか言われながら二百五十年、戦のない世界を続けさせた。
それが薩長の成り上がり者が、権力を握った途端、戦の連続だ。
 
戦はほんの僅かな人間の、思い付きから始まる。
民草はこのことを銘記すべきだある。
 
これは人間と言う生き物が世に現れた時から、延々と受け継がれて、その度毎に下々の人々を苦しめてきた。
そんなに戦がしたいのなら、昔の武将の様に、己自らが戦場に赴かなければ、民の納得は得られまい。
安全地帯で踊るだけが為政者の務めではあるまい。
かの家康とて、負け戦で馬上で糞を垂れるくらい、奮戦したことがあると言う。
これがあるから、皆が付いてくるのである。
今の政治屋でそれ程の決意を見せる者はだれ一人おるまい。
民を虐げるばかりが政治屋の仕事ではない。
 
東条も太平洋戦争が自衛戦争であると言っている様に、自衛か侵略かの区別は如何にでもなる。
だが、最高裁自衛隊違憲訴訟で自衛のための軍隊は戦力ではない等と呆けたことを言っている。
次に引用してみよう。
 
本条(9条)によって、我が国が主権国として持つ固有の自衛権は、何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は無防備、無抵抗を定めたものではない。
本条一項はいわゆる侵略戦争を放棄したものであり、二項が言うその保持を禁止した戦力とは我が国自体の戦力指し、外国の軍隊はたとえそれが我が国に駐留するとしても、ここに云う戦力には当たらないと解すべきである。         (砂川刑特法事件上告審、―最大判しょうわ34.12)
 
これは最高裁の大法廷の違憲訴訟…即ち最高裁の全裁判官の結論である。
何とも稚拙な理由づけである。 
この様な呆けた判決を出されても、国民は知らぬ顔の半兵衛であったろう。
 
だが一審判決は気概を示した。
 この一審判決の上告審の結論が上記最高裁の答えである。
 
本条は自衛権を否定すべきものではないが、侵略戦争は勿論の事、自衛のための戦力保持をも許さないものである。(同上第一審東京地裁畔4.3)
 
自衛のための戦力と侵略のための戦力は区別できないものであれば、最高裁の様な考え方は出てこない。
何処までが自衛で、何処からが侵略かを言い尽くすことは不可能・・・・・
単に時の行政に阿った判決と言われても仕方あるまい。
最高裁判事は戦前の大審院判事の様な天皇直任官時代の権威を夢見ているのであろう。
国民投票などあって無きに等しのは十分に承知の上である。
国民が政治や司法に真摯に対応していれば、少なくともいくらかは行政に阿る判決は少なくなるかもしれない。
 
あの違憲判決を書いた裁判官はどうなったであろうか・・・・・
判事補が最高裁によって任官を拒否されたこともある、最高裁の意に沿わない判決を書いたのか、理由は開示されていないという。
最高裁の独裁というべきなのであろう。
こんな最高裁を持つ民草は不幸である。
 
今は昔の人々と違って、漸く時の権力者に向かって、ノン、と言える時代になったのである。
民草の自覚が必要であろう。
 
 
 
 
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