徒然の書

思い付くままを徒然に

裏切り者の悲哀

 
裏切り、とか裏切り者とかいう語感は何とも後味の悪い様な感じを受ける。
この裏切りも様々であり、ほんのお愛想みたいなものから、時代を左右する程重大な意味をもを持つ裏切りまで、その形態や様相は様々である。
この裏切りとは人の信頼、真心を破壊し、信義に反することである。
信義を重んじた我が国の武将あたりでも、平然と裏切りを行ったものは多い。
今の我が国あたりでも、即座に数百人ぐらいの裏切り者を見つけるに苦労はしなかろう。
 
世界で誰もが知っている裏切り者、ユダ・・・・
彼は本当に裏切ったのっだろうか・・・・
キリスト教があるのは、イエスが十字架に掛かったから・・・・
もしユダが裏切らず、イエスが十字架に掛からなかったら、果たして今キリスト教って存在しただろうか・・・・・
エスの計画では、どうしても十字架に掛かって死ななければならない、と思っていた。
エスの一番の存在理由は、人間のあらゆる罪を背負って、十字架に掛かって死ぬと言うこと・・・・・
これが、病気や単なる事故、はては老衰で死んだのではキリスト教の存在自体、意味を為さなくなる。
エスが十字架に掛かって死に、復活を遂げてこそのキリスト教
このパターンがなければキリスト教の存在はない。
再三にわたって言っていた、三日後に復活すると言う言葉が嘘になってしまう。
そこで一番信頼していたユダに役目を仰せ付けたのが裏切りを装うこと・・・・
後にも述べるが、ユダ以外の弟子は信頼するに堪えない者ばかりであったらしい。
ユダが裏切った理由もいろいろ言われている様だが、多寡だか銀貨三十枚ぐらいで、裏切るものだろうか・・・・当時の職人の日銭は銀貨一枚程度だと言う。
理由などどうでもいいのだが、世間一般信用してくれないと困る。
 
そのあとイエスは計画を遂行するための既定方針に従って、色々と世間に己をアピールする行動に出ている。
当時のユダヤ人社会では旧約の教えを忠実に守っていれば良しとする風潮があったらしい。
彼らに言わせると、イエスと言う訳のわからぬ若者が現れて、旧約の教えは教えとして、その背後にある神の真意を読み取らなければならないと言う。
などと言っても、契約と言うのは双方の合意で成り立つもの、一方がその真意を汲んで、勝手な解釈をすると、どこかの国の世情を知らない裁判官の様に杓子定規な判決で契約違反だなどと言われかねない。
この旧約聖書に現れる神々は実に陰険で、残忍な神々で、人間を殺すことなど何とも思わない神であってみれば、勝手に契約を読み替えて殺されては堪ったものではない。
エスなどの言うのは、後からの述べた屁理屈と言うもの。
尤も、新約聖書になる頃の神は心を入れ替えたのか、慈悲深い神だと言うのだから、どんな心境の変化があったのか・・・・・
いつまた元の残忍な神に戻らないと言う保証はない。
 
エスと言う男、たとえ話をよくするらしい。
たとえ話は聞く方でどうにでも解釈できるもの・・・・
その解釈に難癖をつけるのも数限りなくある。
言われた者はそれぞれ、そうかな~って思うが、イエスの利口なのはその本意を決して明かさないところにある。
だから聞く者には、本当は何が言いたいんだろうと思わざるを得ない。
すべてが万事、新旧合わせて聖書を読んでも、イエスと言う人間、教えと言うものが何なのかさっぱりわからない。
 
マタイ伝に書かれた・・・
22:37エスは言われた、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。 22:38これがいちばん大切な、第一のいましめである。 22:39第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。
これだけなら、何も宗教とするほどの事もない。
膨大な聖書などと言うものも必要ない。
比喩を含めても百ページもあれば済むだろう。
 
ちょっと横道に逸れ様・・・・・
ルカによる福音書に次のようなのがある。
18:27エスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。 18:28ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。 18:29エスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、 18:30必ずこの時代ではその幾倍も報いを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。
 
人間の社会で、親兄弟、妻子を捨てて、報われるのは悲惨な運命ばかり・・・
人間社会ではこの様な行為をするものは人非人と呼ばれ、社会的に葬られる。
短い命とは言え、己の生きている世界からはじき出されることは耐えられない。
来るべき世界で、永遠の命を授けられようとも・・・・・
見たことも行ったこともない世界で永遠の命など与えられたと、喜ぶ人間は恐らくいないだろう。
彼の世での永遠の命とは何・・・・・
すべてのものを捨ててイエスに従ったペテロは、彼の世で何を得た・・・・・知る者はいない。
 
様々な戦場に於いて、ニューヨークのスラム街に於いて必死になって祈る人々に、神は何ををしてくれた。
精神を病み、肉体を病んだ帰還兵に神はなにをしてくれた。
現実世界の苦しみのみを与えてくれたのでは・・・・・・
信じたがゆえに、一層の絶望を感じたのではないだろうか。
宗教者は人間を見間違っている。
 
閑話休題エスの変容と呼ばれる場面である
17:1六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 17:3すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。  マタイ福音
22:45祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって 22:46言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。     ルカ福音
 
話は前後するが、イエスが捕えられたとき・・・・・
「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 26:72そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。
26:75ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。  マタイ福音
 
ここで弟子たちはイエスと一緒に刑に服することを拒んだのである。
エスを捨てたのである。
尤もイエスには見抜かれていたのではあるが・・・・・
エスの弟子たちはこの様に頼りないものばかりの様である。
湖の漁師など、素性の定かでないものが多いらしく、長い間、共に暮らしたとは言っても彼らにはイエスの言う言葉の形而上学的意味を理解することは難しかったのかも知れない。
信頼できるのは、ユダしかいないと思っていたのではなかろうか。
このあとイエスは二度、三度と復活を予告してエルサレムへ行く。
高い山に登って変容した時に既に復活を予告していると言うことは、裏切られて、己が死ぬことを知っていたことになる。
 
最後の晩餐場面で、
14:18そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。        マルコ福音
 
14:21「・・・しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。     マルコ福音
とまで言っている。
ユダに惨い役目を負わせたユダへの、せめてものイエスの悔悟の念であったかもしれない。
 
晩さんの席で、あなたのしようとしていることをしなさい、今すぐに・・・・・
と言う。
打ち合わせ通り仕事に掛かれと指示したのであろう。
 
我が国でも、主のために己を犠牲にして裏切りを装う話は随分と在った。
エスとユダも十分な打ち合わせが出来ていたのだろう。
ここで失敗して、イエスが十字架に掛からなかったら、今のキリスト教は存在しなかったであろう・・・・・
それほど重大な役目をユダは仰せつかったことになる、裏切り者の汚名を着てまで・・・・・・
裏切り者どころか、ユダはイエスの忠実な家来であったと言える。
ユダは神殿の司祭たちに銀貨を返し、イエスが死を遂げる少し前、城壁外の木で首を括って死を遂げた。
使命を成し遂げ、満足ではあったが、多少の悔しさもあっただろう。
ユダがいなければ今のキリスト教も存在しなかったかもしれない。
 
裏切り者と言う烙印を張られた人間の末路は哀れである。
信長を裏切った明智光秀の末路もあわれ、関ヶ原で豊臣を裏切った小早川秀秋
裏切りを誘った家康も、秀秋を許してはおかなかった。
所詮裏切り者は世に受け入れられはしない。
 
真実、イエスが神の子かどうかは知らないが・・・・・・
エス自身、神の子を確信していたとはいえ、死への恐怖はぬぐえなかったのであろう。
偉そうなことを言い続けてきたイエスであるが・・・・・・
いざ明日死ぬとなると、磔けの前夜、ゲッセマネの祈りとして有名であるが、死への恐怖と苦悩、使命の重さに恐れおののいて祈っていたと言う。
如何に神の子とは言え人間である以上、これは当然のことで、何の恐怖も感じなければ反対に信用することは出来ないであろう。
 
 
 
 
 
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