徒然の書

思い付くままを徒然に

神話の世界は・・・・

 
真としやかに語られている、古代の神話の世界。
ギリシャ神話や我が国の神代の世界・・・・・似たようなものに旧約聖書も含まれるであろう。
書かれた時から、何千年も前の事前の事が書かれている、そんな記録が書かれた当時まで現存していたとはとても思えない。
記紀に至っては、我が国最古の歴史書などと言われているが、書かれたのは八世紀、物語の初めは少なくとも一千年以上も昔のこと・・・・・
そんな時代に、史書と言うものを作るための、資料や記録が存在したとはとても思えない。
記紀史書として読むには不足である。
ギリシャ神話に余りにも似すぎている。
ギリシャ神話を基に、創作されたものとして考えた方がいいのかも知れない。
何れのものも、単なる創作物の物語としてなら、何が書かれていようと、云々することではない。
 
出だしは、どれも同じ様な書き出しで始まる。
 
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。・・・・これは旧約聖書
旧約聖書だけに限らず、新約聖書も含まれるかも知れない。
途方もない、奇跡を書き綴ったり・・・・
死人が生き返って、水の上を歩いたり・・・・・・
そもそも、イエスって何が言いたかったのだろう。
エスの教えの根本って何だったのだろう。
新約から判断することは難しい。
 
 
何やら分からない、名前も形も色も匂いも何にもないのだけれど、何か宇宙の原質となるようなものがあった。・・・・これはギリシャ神話。
 
ギリシャ神話については、紀元前七百年代に創作していたヘシオドスが、宇宙の初めについては全くわからないと言っているのだから、その時期にはもう記録が出来る体制にはなってたのだろう。
宇宙の始めについて、最初に生じたものは何か、と問うて、始めにカオスが生じたと言う。
ギリシャ神話は、我が国の記紀の様に八世紀になって、一千年以上遡った時代から書き始めたのとは訳が違う。
 
記紀にしても、単なる物語として読むにはそれなりに面白いこともある。
そもそも宇宙の初めに、混とんとした根源がすでに固まって、まだ生成力も、形も現れなかった頃のことは名付け様もなく動きもなく、誰もその形状を知るものもなかった。・・・・・これは古事記の出だし。
古事記にしても、日本書紀にしての我が国の起源は神武天皇の即位を元年として、紀元前660頃としている。
その時期に我が国では記録を残す方法があったのっだろうか・・・・・記紀が書かれた時期から少なくとも一千年以上も前の世界を、書き記しているのだが、八世紀にその様な記録や伝承があったとは思えない。
その様な旧辞や帝記が現存して初めて記紀の信憑性が正当化されるのである。
記紀が書かれたのは八世紀初め、その頃編纂の基となる文書がなければ、記紀は単なる作り物、想像の産物と言えるのではないだろうか。
天武は旧辞に誤りがあるのを惜しまれ、帝記の誤り、乱れを正そうとされてと、稗田阿礼が読み習った旧辞を書き記し、献上せよと、天武(686年没)が命じた。
これ自体は成し遂げられることもなかったのであるが、それまでは口伝伝承であったことを示すものであろう。
口伝というものは、もともと誰を相手に、どんな状況で話したか、それを考慮に入れないと、誤解につながってしまう。
それを行う人間の資質にもよるのだが、論理性や一貫性を欠いたり、さらには揶揄を含んでいたりする。
記述によるものの様に、客観的判断には耐えられない。
後に、記紀自体誤った旧辞や帝記を正しいものにするために、編纂されたものではあるが、天武が云う誤ったものと言うのは、天皇家に都合の悪いものを都合の良いように正す、ことを意味するのだろう。
先の帝紀旧辞の真実が、ここに書き改められたとすれば、記紀の信用は失墜する。
ギリシャ神話などは読み物として存在する色彩が強いが、記紀はわが国の史書としての位置を占めると考えるとき、読み方に注意を要する。
 
昔、未だ天と地が別れず、陰陽の別もまだ生じなかった時、卵の中身の様にまだ固まっていなかった時に,ほの暗くぼんやりとした、何かが芽生えていた。・・・・これは日本書紀、どれも同じ様な事を書いている。
 
どれも決まった様に、この後、神が現れて、天地の創造が始まる。
紀元前一千年も、三千年も前に、宇宙などと言う言葉を使う人間がいた等とは凡そ考えられない。
が、しかしギリシャ神話に星座の物語がある様に神であったり英雄であったり、妖精であったり・・・・・・
案外、天体をも含めたものの見方をしていたのかも知れない。
 
旧約聖書以外は何処からか、神と称するものが現れて、様々に動き回る
り、活動するのであるが、実に人間臭い。
旧約聖書の神は、一度として姿を現すことなく、人間を操るだけの存在であるが、次から次へと操られる人間が現れる。
ギリシャの古典も我が国の古典も似たような話の筋になることが多いが、この神々実に人間臭い。
書かれた当時の人間が、恐らくモデルになっているのであろう、そんな気がする。
神々の性根や考え方や行動は人間のそれ、そのもの・・・・・
だから、今から神話の世界を書こうと思えば、適当に面白そうな人間を選んで、それぞれの空想に従ってその者達に超能力を与えれば、現代の神々の出来上がりである。
その神々を己の思うように、動かせば神話の世界が現れてくる。
ギリシャ神話の神々は、死の世界へは行かない、即ち死ぬことはないのだが、我が国の太古の神々は意外と簡単に黄泉の国へと御隠れになる。
伊弉諾伊弉冉尊、素戔嗚や大国主神の尊等すう~と幽界へと入ってしまう。
ただ、天照だけは、その記述がない。
天ツ国を支配していたのは、古事記と書紀では違うのであるが、天皇家にとっては、天照一人が支配していたとする方が都合がいいのであろう。
 
その神々に、人間共を絡めて、適当な話を作ればいとも簡単に神話が出来上がる。
神々に犯されて子を産めば半神が出来上がる。
これが、神話の世界の物語、・・・・・・
ゼウスなどどれ程多くの半神をつくたか・・・
神々とて、焼きもちを焼き、嫉妬する・・・・実に人間臭い・・・・人間そのものと言うべきか。
 
旧約の様に姿を現さずに、操る人間を適当に拾っておくと、聖書の世界が出来上がる。
そして神が次のように言えば、人間は喜んで従うだろう。
適当な人間を選んで、次ぎの様に言えばよい。
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。
 
神だからどんなことを命じても、人間共は従い、従わない奴には、災厄を与え、まとめて殺してしまったり、人間自体を総取替えするも自由・・・・・・
 
多少の文才があれば短編として書くがいい。
古典の世界は長編ものではなく短編の寄せ集め・・・・・・
 
それが、何かの拍子に二千年後の世界に残ったりすると、古代の神話として語られるかもしれない。
昔の人間って、馬鹿なこと考えていたんだな~って、嘆息するだろう。
 
 
 
 
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