徒然の書

思い付くままを徒然に

様々な創生神話

 
数千年前の世の創世について書かれたものは、旧約聖書以外殆ど史料と言うほどのものはない。
この旧約聖書にしても同時代的に書かれたものではなく、何千年も後になって書かれた創作物に過ぎない。
世に様々な創世神話があるが、それぞれに趣向を凝らした面白さがある。
旧約の様に、神が現れて、天地を創造して大地の上にあらゆる生き物を作り出したと・・・・・
旧約の創世があまりにも有名で、旧約以外の史料とてほとんど見当たらない事もその理由の一つである。
旧約創世記の冒頭余りにも有名・・・・・
1:1はじめに神は天と地とを創造された。 1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
 
では神は何処から現れた、神って何だってことになる。
未だ過って神って何だって聞いて納得の行く答えをもらったことはない。
 
ギリシャ神話の創生はちょっと面白い。
同じギリシャ神話にあっても、作者によっては世の創世は全く違った場面を描き出している。
 
これはヘシオドスが神統記に書いたことなのであるが、それによると・・・・
最初にまずカオスが生じた、さて次に胸幅広い大地、雪を戴くオリンポスの頂に宮居するの八百万の神々の常久に揺るぎない御座なる大地と路広の大地の奥底にある曖々たるタルタロス、更に不死の神々のうちでも並びなく美しエロスが生じたもうた。
この神は四肢の力を萎えさせ、神々と人間共、よろずの者どもの胸の内と考え深い心の内を拉ぐ。
カオスから幽冥と暗い夜が生じた。次に夜から澄明と昼日が生じた。
夜が幽冥と情愛の契りを交わして身重となり生み給うたのである。
 
さて、まずはじめに彼女と同じ大きさの星散乱える天(クロノス)をうんだ。
天が彼女(ガイア)をすっかり覆いつくし、幸う神々の常久に揺るぎない御座なるようにと。
また大地は高い山々を生みたもうた。
緑陰濃い山々に棲む女精の女神たちの楽しい遊山の場所を。
また大浪荒れる不毛の海、ポントスを生んだ。
喜ばしい情愛の契りもせずに。
天に添い寝して生み給うたのは深渦の巻く大洋、男神四神、女神、四神・・・・・
黄金の冠付けたポイペ、可愛らしいテテュス、これらの後から末っ子、悪知恵長けたクロノス。
子供たちの中で一番恐ろしいものが生まれた。
この者は強壮な父親ウラノスを憎んだ。
この後対地ガイアはアプロディティをふくめ-多くの児をうむ。
 
同じギリシャ神話の創世についてもアポロドロースだと幾分違ってくる。
天空即ちウラノスが最初に全世界を制した。
それから大地を娶って、ヘカントゲールを生んだ。
そののち大地はキュクロープス達を生んだが、ウラノスは彼らを次々にタルタロスへ投げ込んだ。
更に大地はティーターン族と呼ばれる子供たちを生む・・・・・・
違うのは、ゼウスが現れる頃までの違いがほとんどだと言っていい。
 
ヨーロッパを席巻したケルトになると、ケルトの伝承の中には、聖書やシュメールのニップールの詩やバビロニアマルドゥクの神話に見られるような本来的創生記、体系的な創世の物語は存在しないという。
ケルト人にとって、それまで存在しなかった宇宙が創造されたいわゆる始まりと言うものはなかった。
ケルト人にとっては今も創造が繰り返されているのであり、常に創造の第一日目であると考えていたようである。
人間の思考の面白さ、想像もつかない人間の脳の働きの違いに驚かされる。
ケルトの世界をかんがみる時、彼らの思考過程の特殊さにとても興味が尽きない。
ケルト人の思考形態がキリスト教的思考形態に汚染されずに、現代にまで持ち越されていれば、また別の文明があったかもしれない。
 
世界の始まりと題した、オウィディウスの変身物語は世の始まりを細々と書き記している。
海と大地と、万物を蔽う天空が存在する以前には、自然の相貌は全世界に渡って同一だった。人はこれを混沌と呼んだが、それは何の手も加えられず秩序立てられてもいない集塊に過ぎなかった。~~世界に太陽もまだなく~~大地が自らの重みで釣り合いを保ちつつ周囲の大気の中に浮かぶこともなければ~~大気らしきものは有るにはあったが地は固まってはいず~~大気には光が無かった。(~~は中略)
この中で神はという言葉が出てくるが、それは「ひときわすぐれた自然」だと言っている。
ひときわ優れた自然とはどの様なものを指すのかまでは言ってはいないが・・・・
神が天空から大地を、大地から海を引き離し、濃密な大気と澄んだ天空とを分けた。人間の誕生はあの造物主が自らの神的な種から人間を作ったのかも知れないし、あるいはできたばかりで、上空の霊気から切り離されたばかりの大地が元は同属であった天空の胚珠をそのまま保持していたのかも知れない。
後の場合その大地の土塊をプロメテウスが雨水と混ぜ合わせて、万物を支配する神々に似せて捏ね上げたということになる。
オウィディウスの時代になると聖書の影響が多分に感じられるようであるが、
ここでいう神とは旧約の言う神とは違う。
 
それでは我が国の古事記の序に書かれた世の創造について見てみると、夫れ混元すでに凝りて、気象未だ効れず。で始まる安麻呂の申すことは・・・・
そもそも宇宙の初めに、混沌とした根源がすでに固まって、未だ生成力も、形も現れなかった頃のことは、名付け様もなく、動きもなく誰もその形状を知る者はなかった。
しかしながら天と地が初めて別れると三神が万物創造の初めと為り、また陰と陽の二気に初めて別れると、二神が現れ万物を生み出す祖紳となった。
 
旧約の神ヤハウエ―、ギリシャ神話の多くの神々は、人間など及びもつかない悪行を平然と行うのであるが、ダンテなどこの神々に遠慮したのか、、ハヤウエ-やゼウス、更には一番陰険なヘラなどと言う女を地獄に叩き込んだとは書かれていない。
尤も、ゼウスの悪行と言っても、女を騙し、情交に及んで、子を産ませることぐらいのものである。
ギリシャ神話で描かれる神々と旧約に描かれるヤハウエーなどと言うものを比べてみると、旧約に描かれる神は陰湿な性向の持ち主で様である。
ダンテの書く地獄と天国とのあまりの落差の大きさを思うとき、人間に限らず、神といえども、悪行に対しては地獄の糞尿の中へまっさかさまに落としてその悲惨さを味わわせる必要があろう。
それが自然の摂理と言うものである。
神の傲慢さは人間のそれなどとても及びもつかないとは言うものの、その悪の限りを思いついたのは、この物語を作り出した人間に他ならない。
天国や地獄、更に宇宙などと言っても、古代の人間の生きてる現実の世界で、頭をフル回転させて作り出したもので、思いつく限りの悪行を並べ立てたのであろう。
宗教としての神を作り出すのなら、もう少し神と言うものについて思考を昇華させる必要があったろう。
旧約の様に、神が自分に似せて作りだした人間や、その人間の骨から作り出された女だとしても、悪をなすなどは人間なら当然の事であると、思い致すべきであった。
人間と言う生き物、生まれながらに悪を内包しているのは、人間が創り出された時から備わった性向なのである。
ただこの悪と言うのはキリスト教などが言う原罪とはまったく別個のもので、人間は生来、悪は内包していても、生まれながらに罪を背負うなどと言うのは錯誤も甚だしい。
原罪はアダムやイブの罪を引きずっていると云うのであるが、失楽園についてさえ、教派や思想によって随分と違いがる。
時によっては無原罪などと言う苦しい言い訳を作り出さねばならない。
これらのものの中で描かれる、神と言われるものは、貧弱な人間の頭の中の妄想で、こうあって欲しい、という妄執が創り出したものでしかない。
だから、神といわれるものが人間の思考過程、行動過程そのものと全く同じなのは人間の思考の産物でしかないという事の証明でもある。
祟りだとか、罰だとかいうものは、そのものについて恐れるあまり、潜在意識に深かく埋め込まれた意識が発現したものに他ならない。
 
旧約聖書にしても描かれている時代は前何千年も以前の事であるが、同時代的に記述されたものではなく、何千年も後になって、個々別々に、口述や僅かな史料によって、創作されたものであろう。
古代も、現代も人間と言う生き物は争い事が好きと見えて、旧約の各編には猛烈な生き残りのための争いと殺戮がごく当たり前の様に記されている。
その頃の古代の人間の思考能力と現代人の思考能力の差が何やら特異なものを醸し出している様に思われる。
 
参考
旧約聖書創世記
ギリシャ神話    アポロドーロス著          高津春繁訳        岩波文庫
変身物語            オウィディウス          中村善也訳        岩波文庫
神統記                ヘシオドス著                  広川洋一訳       岩波文庫
ケルト神話の世界 ブレキアン著         
             田中仁彦 山邑久仁子共訳 中公文庫
古事記                                                      次田真幸訳注  講談社学術文庫
 
 
 
 
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