遇と不遇とは時なり
道徳に棲守するするものは寂寞たり。権勢に依阿するものは万古に凄涼たり。達人は物外の物を観、身後の身を思う。寧ろ一時の寂莫を受くるも、万古の凄涼を取るなかれ。
と菜根譚の第一条にある。
遇と不遇とは時なり。 遇不遇者時也。 荀子
と荀子も書いている。
真理を守り抜くものは往々にして一時的に不遇で寂しい境遇に陥ることがある。
権勢におもねって生きるものは、一時は栄えても結局は痛ましく寂しい境遇に陥ることになる。
中国の古い時代、権勢におもねって、他人を讒訴し死に追いやった輩はなんと多いことか。
それは現代においても、言えることで昔のように生命を絶つ死ではなくても、社会的に葬り去る様な讒訴は絶えるることはなかろう。
この讒訴という行為は人間の業みたいなもので、他人に対する嫉妬から沸き起こる人間の感情の末路である。
三木もその著作人生論ノートの中で言っているように、もし私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとするとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在であると。
そして、嫉妬こそベーコンが言った様に悪魔に最もふさわしい属性であると。
なぜなら、この嫉妬は狡猾に、闇の中でよいものを害することに向かって働くのが通常であるから、と。
人間社会の中で己より幸福な奴、己より高い地位にある奴を見ると沸き起こる最悪の感情、それが嫉妬という名の人間という生き物の心の中に巣くう最悪の感情である。
それなら己をその高みに引き上げる努力をすればよいものを、そうはせずに人を己の位置以下にまで引き下げようと試みるのが嫉妬というものの悪魔性である。
その悪魔から生じる様々な行為の一つに、例えば讒訴などがある。
讒訴、この言葉聞くだに身の毛がよだつ悪魔的な行為である。
こんな行為が、常の世でさりげなく、あるいはあからさまに、行われているのが人間という生き物の世界なのである。
この人間の感情は何も新しいことではなく、何千年も前の古代ギリシャでさえ行われていて、それでソクラテスなどは死刑を宣告されている。
この様な輩はその場限りの人生を生きているのであり、人間としての値打ちはほとんどないと、このような生き方の輩には遇、不遇などという観念はかけらもなく、己が認められないのは世の所為だぐらいに思っているのだろう。
達人ともなるとは常の世俗の外の真実を見、死後に続く永遠の生命を思う。
一時的に不遇に落ちたとしても、永遠に痛ましさが続くような道を選んではならない。
人間には遇不遇はつきもので、不遇な不幸せが続くものではない。
これを認識している人は、どれ程居るだろうか。
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