徒然の書

思い付くままを徒然に

人間の本性~欲望の生きがい~

 人間は誰でも生まれつき欲望を持っている。

たとえ聖人であろうと、例外ではない。その欲望はやり方によっては制御することができる。

荀子という人の考えはこれで貫かれている。

人間の天性は悪である。善なる性質は人為の所産に過ぎない。

人間は生まれつき利益によって左右される一面がある。

この一面がそのまま成長していくと、誠意が失われ、相手を失うことになる。

荀子の思考の前提は人間の欲望に対する客観的な認識である。

きれいごとでは人を動かすことは出来ない。

欲望を持ち、本能のままに動こうとするのが人間という生き物の本質である。

荀子は欲望を持つ人間を如何に制御するか、そのために人間の本質の直視が必要であると説く。

 

韓非子は説林篇に斉の名宰相管中の言葉として、人自ら足るにとどまること能わずして滅ぶ、と述べている。

 

富の涯たる、その富既に足れるものなり、人は自ら足るにとどまること能わずして亡ぶ、とある。

富の限界はそれに満足することにある、しかし人間はどこまで行っても満足することを知らずついには身を滅ぼしてしまう、という。

管中は斉の国の宰相として民生の安定を優先させた人物として知られている。

 

人間誰もが欲に取りつかれている、これがあることによって人間社会が進歩してきた一面があることもまた事実である。

欲というものは、これが手に入れば、次はあれと際限なく広がっていく。

人間という生き物、欲というものに際限がなく止まることを知らないが、とどのつまりは欲を出しすぎて足を滑らせてしまう。

後で後悔するが後の祭りである。

 

老子も言う、足るを知れば辱められず、止まることを知れば殆うからず、と。

 

足ること、止まることをよく心得ていれば、安全にこの世の中を生きていくことができるというのである。

自分だけがいい思いをしようとか、自分だけが儲けようとすると、一時はいいとしても長続きはしない。

よい時にはいいのだが、足ることを知らないと身を滅ぼしてしまう。

 

老子‐四四章に止足の戒めと言われている文がある。

 

知足不辱、知止不殆

物惜しみして大量に蓄えれば、必ず大いに散財する羽目になり、大いに失うことになる。

満足することを知っていれば、辱めを受けず、止まることを知っていれば危険を免れられ、いつまでも永らえられる。

老子は言うが、現実の問題として、人間という生き物はどんなにお金を貯めてもこれでいいということは在り得ない。

出来ればもっと増やしたいと欲の皮が突っ張り、満足感を満たすことはない。

では欲望の限界はどこにあるのだろう。

富というのは結局のところ,本人が満足をしたところなのかもしれない。

韓非子に斉の桓公と管中の問答が載っている。

富には限界というものがあるのだろうかという桓公の問いに、

管中の答えは、富の限界はそれに満足するところにある、しかし人間は満足することを知らず、ついには身を滅ぼしてしまう。

それが限界かもしれないと、答えている。

 

人間という生き物の欲の皮には際限がない、富を追求することが生きがいという輩は、

欲惚けのために身を亡ぼす愚かさを考えることの余裕もないのであろう。

人間、足ることを知らないと身を滅ぼしてしまう、肝に銘じる必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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