正月は冥土の旅の一里塚
子供の頃はお正月はただ楽しいだけの年中行事であったが、一里塚を何十回も通り過ぎてくると、楽しいとばかりはいっていられない。
子供ではないが、あといくつ寝たら・・・・・の時期になると、世は寒々としたものばかりに見えてくる。
一休宗純でなくとも、また一つ一里塚が見えてきた。
これが最後の一里塚なのか、まだ先に幾つか残っているのか、閻魔殿に聞いてみたいような気もする。
街中を徘徊しても感性を刺激するものは全く見当たらない。
風景も花も心に響く何物も無いと言っていい。
街中に見えるのは葉っぱを落とした寒々としか枯れ木擬き。
蝶よ花よと花に戯れていた虫さえも全く姿がなくなってしまった。
陽だまりのこずえに止まった寒さに膨らんだスズメが一羽鳴くでもなく、辺りを見回すでもなく。
世の中のほとんどのものが冬眠に入ろうとするとき、ひとり人間と言う生き物だけが無暗矢鱈に街中を走り回っている。
人間と言いう生き物商売は何とも忙しくできているのだろうか。
盆と正月、藪入りの日ぐらいがどうにか息が抜けるだけなのかもしれない。
日本と言う国の我らの先祖が、今よりももっと悲惨な暮らしを強いられていた頃、地獄の釜の蓋が開くとき罪人も解き放たれて一時の安らぎを得るが、善良な人々も同じ様に一時の安らぎを感じるのだろう。
善良な人々も酷使されてきた名残が何時まで経っても消えることなく現代にまで語り継がれ生きているのだろう。
文明開化などと庶民は浮かれていたであろうが、あの開化は諸外国のように己たちが庶民が主導して成し遂げたものではなかったが故に、結果は旧態以前として全く変らなかったのは、ヨーロッパなどで起こった市民革命と大きな違いがある。
それが庶民の権利意識を主張するヨーロッパと我が国の大きな違いであり、後世の現代にまで尾を引いている。
武士ともいえない足軽中間あるいは無学、無能な公家などの小物が実権を握って、互いの権力争いとそれまでのうっ憤を晴らすがごとく、庶民を虐げる方法を外国に範を取って模索し始めた。
封建時代は武家に実権を握られていたとはいえ、農民の搾取は有ったものの、善政を敷いた諸藩の民は現代よりはるかに自由であったと云える。
幕府の執政衆に代わって、外国の執政を模倣した無学、無能な足軽中間や遊び呆けていた無能な公家がとってかわってと云うだけの事である。
此処でも国民は疎外されたままであった。
それは今後もよほどの優れた人物が現れるまで、未来永劫人類が滅亡するまで延々と続くのだろう。
高幡不動尊鐘楼
私が住んでた町は寺の多い所で、除夜ともなると鐘の音が鳴り響いたものである。
あの音を聞きながら除夜を過ごすのが何よりも楽しみであった。
東京あたりに住んでると、鐘の音など除夜であっても聞いたことさえない。
鐘を撞くことさえも規制されているのだろう。
ここ高幡不動の鐘が除夜には響くのだろうか。
一度は聞いてみたいと思うのだが。
最後に鐘の音を聞いたのは川崎の総持寺であった。
その頃は、鐘を撞いているところを撮りたくて、川崎の総持寺まで出かける元気があった。
今振り返ってみてると懐かしさが湧き上がってくる。
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