徒然の書

思い付くままを徒然に

太平記の世界 その弐

 
新田軍を箱根竹の下で破った足利軍は、36年(延元1建武3)正月に入京したが、京中合戦で敗れて後醍醐に追われて西走し九州へ逃れた。この途中、播磨室津の軍議で一族および有力武将を四国・中国の各地に配置することを決定し、備後鞆津で持明院統光厳上皇院宣を得て、朝敵の汚名を逃れることに成功した。
―――日本大百科全書―――
 
尊氏の東上を防ぐために、勝てる見込みの全くない、尊氏との戦に何故命を懸けるほどの意義があったのか。
後醍醐と言う男それ程の魅力のある人物とはとても思えない、楠親子の行動であった。
只々、未だに理解できないのが、ただの土豪でしかない楠正成親子が天皇に擦り寄って行ったのか、その行動である。
武家が支配する鎌倉時代になって、世の民と言われる人々が活発に動き出した。
己が権力を手にすればそれらの民を自由に搾取することが出来る。
一時代前の律令制度華やかなりし頃の時代に戻し、権力を振るい、うまい汁を吸おうとしたのが後醍醐であったのは先にも述べた。
律令時代が如何に民を搾取していたか、その夢よもう一度と言う後醍醐の内心を読むことが出来なかったのが、楠親子とその一族であったのではないだろうか。
この楠木は地方の土豪で、天皇の臣ではなく、ただの民である。
そのただの民が何故天皇に命を懸けた忠義を尽くすのか。
太平記に記されたこの二人の行動は好意的であり、同情的でもある。
この親子の忠と孝、儒教における忠孝とは全く違った様相を示しているような気がする。
儒教の制度的として忠、孝を見るなら、この親子の忠義は儒教うの忠孝を超えていると言える。
この親子がただの民でありながら、なぜこれほどまでに天皇と結びつきたがったのか、刺し違えて自刃するときに、七生まで同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさんと誓ったという、この異常な執念は何だったのだろうか。
この楠木一族の足利政権に対する、異様、醜悪な敵意は何処から生まれてきたのだろうか。
この楠木的な異常とも思える思念は後世の皇国史観と言う狂信的な特殊モラルであって、西欧世界では見る事の出来ないものである。
神を引き合いに出した狂信的宗教と言っていいのかも知れない。
この際の、正成親子の桜井の別れは随分と後の世まで伝わって、昭和の時代になっても戦前の小学校の子供たちは、あの青葉茂れる桜井の・・・という小学唱歌を歌わされ、この親子を賛美させられたものである。
負ける事が解りきった、ただ死ぬためだけの戦いにどんな意味があるのだろう。
ただそれ故に、後世における評価が忠臣と持て囃されることにはなるのである。
現代ではこの様な思考経路には賛否両論があるだろう。
江戸庶民の間では、忠臣蔵同様大楠公、小楠公びいきであったという。
江戸から明治の初めごろまでは間違いなく庶民も正成びいきであったが、これは滅び去った物への判官びいきであったのかも知れない。
明治になって新政府が作った小学校国語教科書に和漢の故事を収録したものの中に正成の遺訓と母の訓戒として乗せているという。
その一部を抜粋していよう。
・・・はじめ父の遺訓を愛くと云えども至孝あまりに、その死を座視するに忍びずして、自殺せむとしたり。
若しこの時その母の止むることなくば、鸞鳳の卵を砕くに斉しく、無二の忠臣を空しく失うべきを、母の誡めに依りて、忍耐の念をお越し、忠孝両全の子となり、上宸襟を慰めたてまつり、下に乃父の志を継ぎたるは、父の訓は在れども、またこの母の力に依れり。
―――太平記 よみ の可能性 兵頭祐己  講談社額従文庫―――
 
忠孝両全などは如何でもいいが、明治の時代、小学校の教科書とも思えない難しい文章を作るものだと感心するばかりである。
そしてこの小学読本に書かれたものが後の世まで正行親子の物語として使われている様であるという。
 
だが明治も後半から終わりに掛けては正成の評価が下がり、反対に尊氏の評価が上がったと言われている。
正成に対する評価が上がれば、必然的に尊氏の評価が下がる。
昭和になってからでも戦前は、皇国史観に凝り固まって、奸雄などと感情的な言辞を弄する学者とも思えない輩さえ現れている。
夢窓疎石が絶賛する尊氏ではあるが、後世におけるこの人物に対する評価は分かれている。この尊氏と言う人物、後世にこの男を悪人に仕立てた者たち、政治屋や官僚、学者などであるが、彼らが束になってもかなわないほどの優れた人物であったと思われる。
 
南北朝時代の歴史書に梅松論というのがある。
梅松論は・・・・
南北朝の動乱の起こりから足利尊氏・直義兄弟が幕府を樹立するまでの経過を述べながら、初期室町政権の正当性や諸将の勲功を事実に基づいて顕揚しようとしたものであり、南朝側の視点にたつ太平記とは対照的な見方をしている。
――日本大百科全書の解説――
 
その歴史物語梅松論の中で、夢想国師の評として一項目を設けて語っている。
 
梅松論の夢想国師の尊氏評は―――
- 夢窓国師の尊氏評 -
   一、ある時夢窓国師、談義の次でに、両将の御徳を条々褒美申されけるに、先づ将軍の御事を仰せられけるは、「国王・大臣・人の首領と生まるゝは過去の善根の力なる間、一世の事にあらず。ことに将軍は君を扶佐し、国の乱を治る職なれば、おぼろげの事にあらず。異朝のことは伝聞計なり。わが朝の田村・利仁・頼光・保昌、異賊を退治すといへども、威勢国に及ばず。
 
 「治承より以下、右幕下頼朝卿兼征夷大将軍の職、武家の政務を自ら専にして賞罰私なしといへ共、罰のからき故に仁の闕ける所々見ゆ。今の征夷大将軍尊氏は仁徳を兼ね給へるうえに尚大いなる徳有るなり。
 
 「第一に御心強にして合戦の間身命を捨て給ふべきに臨む御事度々に及ぶといへども、咲みを含て怖畏の色無し。
 
 「第二に慈悲天性にして人を悪み給ふ事をしり給はず。多く怨敵を寛宥ある事一子のごとし。
 
 「第三に御心広大にして物惜の気なし。金銀土石をも平均に思し食て、武具御馬以下の物を人々に下給ひしに、財と人とを御覽じ合はさる事なく御手に任せ て取り給ひしなり。八月朔日などに諸人の進物共数も知らず有りしかども、皆人に下し給ひし程に、夕に何有りとも覚えずとぞ承りし。
「まことに三つの御躰、末代にありがたき将軍なり」と国師談義の度毎にぞ仰せ有りける。
 
原文のままでも十分判ると思うが・・・・
鎌倉幕府を開いた源頼朝と尊氏を比較し、頼朝については、人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた、と評する一方で尊氏については、仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳があると絶賛している。
更に尊氏評を見ると、疎石は、第一に精神力が強く、合戦の時でも笑みを含んで恐れる色がない。第二に、慈悲の心は天性であり、人を憎む事を知らず、怨敵をもまるで我が子のように許すお方である。第三に、心が広く物惜しみをしない。財と人とを見比べる事なく手に取ったまま下される、とし、以上の三つを兼ね備えた、末代までなかなか現れそうにない得難い将軍である、と言っている。
夢想国師と言えば、鎌倉時代の優れた禅僧。
人の評は様々であるが、皇国史観に毒された平泉澄などと言う者の尊氏評を見ると、只々感情に走った評で、功利の奸雄足利高氏と誹謗するだけの、然も尊を高と文字まで変えて書くなど、学者とも思えないつまらない男である。
 
因みに、皇国史観とは太平洋戦争時にいわば国教化した天皇中心の超国家主義的日本史観で、その根源は幕末の尊攘思想、明治の国粋主義などまでさかのぼる。
唯物史観歴史学の発展に対し危機感を強めた平泉らは、万世一系の国体とそれを基軸として展開した日本歴史の優越性を強調し、大東亜共栄圏思想に歴史的裏づけを与えようとした。
その意味で天皇制と帝国主義を支えるイデオロギーではあるが、皇国史観は非科学的であるのみならず、独善的な自国中心の歴史観といえる。
                                                                      ――参考、日本大百科全書の解説――
尊氏を高氏と書くなど、平泉など理論も何もない唯の国粋主義者で、ただ人を誹謗するだけの、歴史を学ぶものとも思えない偏狭な男であった様である。
 
戦前の日本は、大体が神などと言う者を持ち出さないと、天皇を神聖な者、国は神国などと言はなければ、国民を引き付けられない、馬鹿な輩が支配していた。
 
後醍醐はただ己の思いつきを実行するだけの専制君主であることを望んだ暴君と言っていい。
天皇中心の儀式典礼を整え、諸国の一宮,二宮や国分寺天皇直轄とするなどの天皇専制を強化,腹心の貴族・武士で構成した記録所や恩賞方を通じ綸旨絶対を標榜し、知行国制を打破し、従来の官位相当や家柄も無視して、公武の人材を登用する人事により貴族、官人、武士をその意志の下に置こうとした。
後醍醐は僧衣を黄色に統一しようとし,寺院、僧侶にもその意志を貫こうとした。しかし貴族、武家、僧侶の慣習を無視した政治に対する反発を受けて次第に後退,足利尊氏・直義の反乱により政府は瓦解した。
―――参照 後醍醐 朝日日本歴史人物事典―――
 
後醍醐は吉野に逃れて南朝を立て,室町幕府北朝に対抗したが京都回復の夢を果たせぬまま吉野で死んだ。
 
従来の官位相当や家柄も無視して公武の人材を登用した。
しかし論功行賞においては公家優先であったうえ、従来の所領の領有権は改めて天皇の安堵を受けなければならないという強引な政策を打ち出したり、皇居造営のための臨時賦課を強行したりしたため、地方武士の新政に対する不満は急速に高まった。
また公家にしても、伝統的な摂関政治型の体制が否定され、天皇独裁のもとに恣意的な人事が行われたため、それに対する失望は大きかった。
只々性欲のお化けのような輩であったらしいが、思うがままに権力を振るいたい、ただの権力の化け物だったようだ。
何十人の女に手を付け、何十人の皇子や皇女を生ませたか。
それだからこそ確たる系譜が無い限り、血の欠片が繋がっているとは確定できないのである。
後南朝が絶えたとは言っても、後に述べる様に、明治天皇についての様々な見解が現れることになる。
 
それに反して、尊氏と言う男、後醍醐が吉野で死去したことを知った尊氏は、直義とともに天皇のために盛大な法要を営み、さらに天竜寺を創建して、その菩提を弔っている。
人間としての大きさがまるで比較にならない程の違いがある。
この尊氏のような男を悪人呼ばわりし、太平洋戦争時、日本は神国であるなどと、幕末の尊攘思想、平田国学、明治の国粋主義に汚染された東大教授だという平泉澄と言う男が軍部や文部官僚などと結びついて皇国史観などと言う似非学説を言い出した。
この様な思想を背景に、軍部は未曽有の敗戦につながる、戦争へと突入していくことになる。
こんな似非学説は終戦と同時に消え去る運命にあったが、阿呆は何時の時代にも存在するものらしく、終戦後も依然として信奉者は政治屋や官僚役人の中に残っているようである。
人間にはそれぞれの考え方があるのであり、己の考えを他の押しつけ、あるいは己の考えに合わないものの人格を感情的に誹謗することは条理をわきまえたもののすることではない。
少なくとも、最高学府とも言うべきところで教鞭をとる人間のすることではない。
己の考えが正しいと思うなら、論理を尽くして論破する事であり、非常識な誹謗は人間としての器の偏狭さを露呈するだけの事を思い知るべきである。
こんな偏見を持ったものが我が国最高の学府の教授だというのだから最高学府も何を教授しているものやら、はなはだ疑わしくなってくる。

 
 
参照文献  文中に表示他  太平記よみの可能性  兵頭裕己  講談社学術文庫
                   後南朝闇の歴史     森 茂暁  角川ソフィア文庫
                   吉野葛他         谷崎潤一郎 岩波文庫




イメージ 1




(本ブログの全ての写真は著作権を留保。無断使用・転用・転載・複製を禁ず。)









ーーーーーーーーーーーーーー