徒然の書

思い付くままを徒然に

遠野物語拾遺~羽衣伝説~

 
羽衣伝説は至るところに存在している。
一口に羽衣と言っても飛ぶためのものとは限らない。
竹取物語に様に飛ぶためのものではなく、人間界から離脱するためのものもある。
天界から降りてきた天女が、羽衣を奪われて後の話も各地によって随分と違っている。
豊受の大神(伊弉冉尊の尿から生まれた稚産霊の子)のように、羽衣を奪われて、十年ほども爺婆に尽くした後追い出され、彷徨った挙句伊勢の外宮に居所を定めた天女もいる。
遠く離れた、この遠野にも羽衣の伝説が残っている。
遠野の羽衣伝説は遠野物語にではなく、物語拾遺集に収められている。
遠野の羽衣伝説がどの様なものであったのか、遠野物語拾遺より拾ってみよう。
 
昔青笹には七つの池があった。
その一つの池の中には、みこ石と言う岩があった。
六角牛山の天人児が遊びに来て、衣装を脱いでこのみこ石にかけておいて、水浴びをしていた。
惣介と言う男が釣りに来て、珍しい衣装が掛けてあるのを見て、そっと盗んでハキゴ(籠)に入れて持ち帰った。
天人児は衣装がないために天に飛んで帰ることが出来ず、朴の葉を取って裸身を蔽って、衣装を訪ねて里の方へ下りてきた。
池の近くの一軒家によって、今釣りをしていた男の家はどこかと聞くと、これから少し先へ行くと家が三軒ある、その真ん中の家に住む惣介と言う男がそれだという。
天人児は惣介の家に来て、先ほどお前は衣装を持ってこなかったか、もし持ってきているなら返してくれと頼んだ。
如何にもあのみこ石の上に、見たこともない衣装が掛かっていたので持って帰ってきたが、余りにも珍しいので殿様に上げてきたところだ、とうそを言った。
そうすると天人児は嘆いて、それでは天にも帰っていくこともできぬ。
如何したらいいか暫く考えていたが、漸く顔を上げて言うには、それならば私に田を三人役(三反歩)ばかり貸してください。
それへ蓮華の花を植えて、糸を取って機を織って、もう一度衣装を作るからといった。
そうして惣介に頼んで、みこ石の池のほとりに、笹小屋を建ててもらって、そこに入って住んだ。
青笹村と言うのはその笹小屋をかけたのが起こりであるそうだ。
三人役の田に植えた蓮華の花は一面に咲いた。
天人児はそれから糸を引いて、毎日毎夜その笹小屋の中で、機を織りながら良い声で歌をうたった。
機を織るところを決して覗いてはならぬと、惣介は固く言われていたのであったが、あんまり麗しい歌の声であったので、忍びかねて覗いてみた。
そうすると梭の音ばかり聞こえて、女の姿は見えなかった。
それは多分天人児が六角牛の山で機を織っていたが、ここで織るように聞こえたのっだろうと思われた。
惣介は隠していた衣装を本当に殿様に献上してしまった。
天人児もほどなく曼荼羅と言う機を織り上げたが、それも惣介に頼んで殿様に上げることにした。
殿様は大層この機を珍しがって、一度この機を織った女を見たい。
そしてなんでも望みがあるなら、申し出る様にと惣介に伝えさせた。
天人児はこれを聞いて、別に何という望みはない。
ただ、との様の処に奉公がしたいとこたえた。
それで早速連れて出ることにすると、またこのように美しい女はないのだから、殿様は喜んで御殿においた。
そうして大切にしておいたけれども、天人児は物を食べず、仕事もせず、毎日ふさいでばかりいた。
そのうちに夏になって、御殿には土用干しがあった。
惣介が献上した天人児の下の衣装も、取り出して虫干しがしてあった。
それを隙を見て、天人児は手早く身に着けた。
そうしてすぐに、六角牛山へ飛んで行ってしまった。
殿様の嘆きは長く続いた。
けれども何の甲斐もないので、曼荼羅は後に今も綾織村の光明寺に収めた。
綾織りと言う村の名前もこの時から始まった。
七つの沼も今はなくなって、そこにはただ、沼の御前と言う神が祀られている。
綾織り村の方でも昔この土地に天人が天下って、綾を織ったという言い伝えが別にあって、光明寺にその綾の切れが残っているという。
あるいはまた光明寺でない別の寺に、天人が織ったという曼荼羅を持ち伝えているという話もある。
 
またこの七つの沼はいまはもうないとは言っているが、後に語られる拾遺には、七つの沼は今もあるという話が伝わっている。
ではその話を読んで見よう。
青笹村の七つの沼は今もあって、やや白い色を帯びた水が湧くという。先年この水を風呂に沸かして多くの病人を入浴せしめた者がある。
大変によく効くというので、毎日参詣人が引きも切らなかった。
この評判があまりにも高くなったので、遠野から巡査が行って咎め、傍らにある小さな祠まで足蹴にし、散々に踏みにじって帰った。
するとその男は帰る途中で手足の自由が利かなくなり、家に帰るとそのまま死んだ。
またその家族たちも病気にかかり、死んだものもあったという話である。
この巡査も後に述べる様に、虎の皮を着た、ただの狐でしかなかった。
 
柳田はこれは明治の初めころの話である。と付け加えている。
これは何故なのだろう。
 
明治の初めは薩長の下級武士が天下を獲った成り上がり者の集団で、役に立つ有為の武士達は幕末に多く亡くなって、維新が為ったころに残ったのは小者ばかりの無能集団でしかなかった。
その権力を握ったものの暴挙は廃仏毀釈だけにはとどまらず、廃城などの文化遺産を根こそぎなくしてしまった。
いたずらに神国日本を標榜し、軍国主義へと走り始める。
封建が去り、近代化が為ったように思えるが、それは支配者層に近いもののみであり、庶民にとっては反対に制約が多くなり住みにくくなったのではなかろうか。
明治の世は権力を背景にした狐ばかりが、増え続けた、そんな時代であった。
天皇に阿る余り、天皇家に関する神以外の地方の神は全く認められていなかった。
より具体的言えば、伊勢神宮の存立と王政復古を支え、皇国史観を根底から覆す恐れのある神、それらの神を全国的に洗い出し、抹消することにあったのではなかろうか。
祠を足蹴にして死んだ巡査も、職務に忠実であったというより、権威に阿った結果の暴挙そして災難であったろう。
哀れなのは家族であった。
 
仏教などは受難の時代であったろう。
それでも神の怒りは明治権力の支配など関係なく、官憲に対しても阿ることなく罰をあたえたのだろう。
明治は西洋文化を取り入れ、文明開化と浮かれてはいたが、無能な支配者による暗黒の世でもあった。
それが、昭和の敗戦に繋がるまで延々と続いた。
とは言っても、昭和に於いて敗戦以後も、昭和が終わり平成になっても、民主主義が徹底されたかといえば、否と答えるしかない。
民主主義の大原則はいとも簡単に踏みにじれても、何の痛痒も感じない国民性が災いしているのだろう。
儒教的なものの考え方が美徳だなどと思っている限り、人間そのものの権利とは何かを意識することは出来ないだろう。
 
因みに、先の羽衣伝説の天人児が作った、蓮から糸を取り織物をつぐむとは奇異な感じがするのだが、蓮から織物をつぐむことが出来るのは数年前に知った。
どの様に糸を取り出すのか詳しいことは知らないが織物を織れる、いわゆる藕絲織の材料になることは確かな様である。
葉柄や根茎を折ると細い糸状のものを藕絲という。
現在その為だけに蓮を栽培している処も東京にはある。
 
 
参考文献
 
 
 
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