徒然の書

思い付くままを徒然に

神曲地獄めぐりの旅、辺獄

 
今日はキリストの降誕の日、クリスマスを祝う人も多いだろう。
でも何故、十二月二五日がイエスの誕生日なのか・・・・・
新約聖書のどこを探しても、マタイにも、ルカにも、この日にイエスが生まれたとは記されていない。
 
マタイにあるのは・・・
2:1エスヘロデ王の代に、ユダヤベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 2:2ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
 マタイによる福音書2章第12節(口語訳新約聖書
 
今のように戸籍がはっきり記録されていたわけもなく、特別な人間として生まれたものならいざ知らず、人の生死を記録することもなかったろう。
その期日が何時であろうと、キリストの誕生をだしに、家族の愛を確かめることは無意味な事ではない、クリスマスを大いに楽しむといい。
 
さてその祝いの日に地獄でもないのだが、同じ宗教から出た人間の生き死に関する事だから、宗教上の一つの出来事として寛恕願う。
 
地獄の門をくぐり玄関口から、三途の川即ちアケロン川へ来たダンテだが、アケロン川の渡河を渡し守に拒否された時、大地が鳴動し、恐ろしあのあまりダンテは失神する。
 
激しい雷鳴が頭の中の深い眠りを破った。
驚いて跳ね起き、立ち上がって自分がどこにいるのか確かめようと、周囲を眺めると、自分の立っているのは、嘆きの谷の深淵の縁だった。
渡し守に渡河を拒否されたダンテが、なぜこの場所に来れたのか、ダンテにも説明不可能であったのだろう、神曲には何も記されていない。
 
そこは際限ない叫喚が集まり雷鳴の様にとどろいているところ。
谷底を見つめても霧がかかり何も見えない。
此処を下りると深淵を取り巻く一の圏と呼ばれるところである。
常しえの空気を震わせて、ため息ばかりが聞こえてくる。
だが泣いているものはいない。
その溜息は幼子と言わず、女人と言わず、男子と言わず、夥しい数の群衆の呵責を伴わぬ溜息であった。
彼らは罪を犯してはいない、徳のある人かもしれない。
だがそれだけでは足らない、洗礼を受けていない。
洗礼はそれぞれの人が信じる教えの門だという。
キリストの出生以前は、その教えを知らぬのは仕方のないことであるが、神を正しく礼拝しなかった。
生前いかに善行を積んだ善人と言えども、洗礼を受けていないものは、天上への道は閉ざされる。
キリスト教国においては生まれてから、ほとんどが洗礼を受ける様だが、我が国などで、後になってキリスト教がいいなどとキリストを信じたとしても、洗礼を受けていない以上、悪行を犯してさえいなければ、死後の行先は地獄の一丁目(辺獄)と決まっている。
死後の魂はこの辺獄を彷徨うことになる。
 
ウエルギリュウスは私もその一人であるという。
彼はこの辺獄の住人の一人なのである。
世に名を知られた多くの有名人がいる。
彼らの魂は、ただ無為にこの辺獄を彷徨っている。
神を信じ崇めなかっただけで、他の罪業は何一つない身ながら、私たちは救いを受けることが出来ないと嘆いている。
この辺獄に棲むものは、ただこの落ち度のためだけで憂き目を見ている。
非常に価値のある人々がこの辺獄で、どちら付かずになっていることの不条理に疑問を持つダンテは聞いた。
此処に棲む人で、その人自身の価値で、あるいは他人のお蔭なりで、外へ出た人はいないのですかと・・・・・
ウエルギリュウスが答えて曰く。
私がここへきてまもなくの頃、勝利の栄冠に輝く大いなる権能者がここへ降りるのを私は見た。
この権能者と言うのが、十字架に掛かって黄泉の国へ行ったイエスを指している事は想像がつく。
(イエスが磔にされて、黄泉へ下った。これは、ペテロ第一の手紙3-19に記載がある。)
 
そして、多くの魂を連れ去り、永遠の祝福にあずからしめた。
彼らより先、いかなる人間の魂も救われたものはないということを知ってほしい。と
その時、多くの魂を連れ去った、その者達も凡そ想像がつくであろう。
人類の始祖アダムとその子アベルとノア、そして忠実な立法者モーゼの魂。
族長のアブラハムダビデ王、そしてイスラエルやその子供たち。
その他大勢の人の魂をここから連れ出し、祝福を与えた。
エスが連れ出したのは己に忠実なものばかりで、人間社会にいかに有用な働きをした人物の魂かどうかは考慮されることもなく、置き去りにしていることを心に留めなければならない。
 
世に善行を施したものの魂が天上に召されるなどと言うことが、間違っているという、証明みたいなものである。
エスが連れ去ったのは、只々神に従順であったものの魂だけで、世に有用であったかどうかは関係なかった。
只々、神を信じたかどうかが問われているのである、その証が洗礼だというのである。
 
此処には多くの世に聞こえた人々の魂が、天上の恵みを得て特別な地位に上がっている。
とは言っても、ここは地獄の一丁目、呵責な責め苦がないというだけで、救われることのない魂が無為な暮らしを強いられている。
神を信じたものが人間として優れているということもなく、世の権力争いと同じように、宗教上の権力に群がる亡者どもに変わりはない。
そんな権力欲の亡者どものみが救われるなど、宗教の破綻以外の何物でもなかろう。
 
これは異国の話、我が国の様な仏教国の人々は、生前精々善行を積まれるがよい。
キリスト教信者でない限り。
仏教国の地獄の責め苦も過酷な様です。
釈尊も地獄にだけは行かない方がいいと言っているといいますから・・・・・
 
エスも世のどこか最果ての地の岩陰で嘆いている事であろうか。
否、イエス自身依怙贔屓の達人であれば、己を反省するための出来事であったなかもしれない。
 
このキリスト世界の西洋の地獄、仏教世界の東洋の地獄を見ると、地獄そのものの恐ろしさより、生きた人間共の宗教に名を借りて考えることの恐ろしさが遥かに身の毛をよだたせる。
仏教などでも、八大地獄などと、ありとあらゆる責め苦を考え出したのであろう。
地獄絵図の恐ろしさより、その地獄の責め苦を頭に描きだした、宗教者の心の残忍さの方が、はるかに恐ろしい。
地獄の在り様を思い描いた輩の心の残忍さは驚くばかりである。
西洋の人種と東洋の人種と言うよりも、それぞれの宗教者が創り出した地獄のの残酷度を見ると、人間の考えることは同じと見えてその残酷度には大きな差はない様な気がする。
 
 
    寿岳文章訳  集英社文庫

 

 
 
 
 
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