徒然の書

思い付くままを徒然に

初詣余話

 
お正月は初詣と称して、神社仏閣へ出掛けた人も多いだろう。
天照であったり、八幡であったり、天神であったり、はたまた縁結びの神であったり・・・・・
釈迦であったり、阿弥陀であったり、薬師であったり・・・・・・
何かしら願い事をしてくるのだろう。
かく言う自分も子供の頃は初詣に出かけてこともあるのだが、東京へ出てからはあの延々たる行列を見ただけで嫌気がさしたものである。
我が国の人々はこれ程神に対する畏敬の念を持っているのだろうかと、ついつい思ってしまう。
そも、神とは何ぞやと問いたくなるのだが、古くから神についての語源をはっきりと述べて人は無いと思っている。
 
ポケットの底の十円であったり、百円であったり、その程度で何を祈願し、どんな恵みを得ようとしたのだろうか・・・・・
あの雰囲気を味わいに出かけてみようと出かける人も中にはいるだろう。
只々、年に一回の気晴らしに出かけるのだから、何も多額の金銭を投ずることはない。
五百円だ、千円だ、況して万札などは馬鹿の骨頂・・・・・
多額のお賽銭は神の恩寵を受けやすいなどとは、思わないことである。
只々、神主や坊主を喜ばせるだけだから・・・・・・
 
古から神とは何ぞや・・・・と問うて明確に示した人は先にも述べたが恐らく絶無。
とは言っても、創生の頃を書いたものは殆どが、カオスの中から神が現れている。
我々は目にするものを、己の知っている方に当てはめてものを認識し、確認できるから安穏に生活できるのであるが、形の持たないものが現れることも、突如として眼前に現れることがある。
生きていくためには避けえない様々なものの中には、形のないものがたくさん存在する。
その最たるものが神と呼ばれるものなのかもしれない。
人間形のないものは頭の中で思い描く、それを形あるものとして、認識できるものとして作り出す、それが偶像と言うものなのであろう。
言葉は如何であれ、神と言うものを信じたいのなら、それは己の頭の中、というか心の中と言うか、己のうちにあると思えばよい。
祈るということは様々な願望を思い描くということであろう。
その心の内の神に祈りをささげ、己の願望を成就させるということは、その願望を潜在意識に沈めるということなのである。
潜在意識がそれを受け取ると、何時の日か必ず、現実のものとして現してくれるだろう。
ただ潜在意識がそれを受け取ったかどうか確かめる術はない。
切羽詰まった願い事がるのなら、沈思黙考、瞑想して、潜在意識に願望を沈めることである。
ただ並大抵の努力ではないし、必ず潜在意識に沈めることが出来るとは限らない、ということだけは確かである。
潜在意識に沈み込んだ事柄は、潜在意識はどんな手段を講じても、必ず現実の世界に姿を現すと言われている、学説がある。
それが奇跡であり、願望成就などと言われるものなのであろう。
 
閑話休題、世に伝わるもの、様々なものに書かれているものをもの見ると、この世の始まりはカオスすであったと書かれている。
カオスとは靄に包まれた、混沌とした塊りと・・・・
多くの神話と称するものが、それを範とした聖書などが、そこに神が現れて、様々なものを作ったとされているのだが、単なる物語の書き出しに過ぎない。
 
どの様にして、人間がこの世にあらわれたのか、いかに科学が発達しても、誰ひとり知る者はいない。
だが人間がこの地球上に現れ、神と言われる幻影を作り上げた。
人間の現れる以前に、神と言われるものが本当にあるとすれば、それは自然の現象であり、自然の摂理そのもののことである。
人間が誕生したころは、その崇拝する対象は、山であり海であり川であり、天空であったろう。
自然がおこす脅威に恐れをなし、それから逃れる事を考えたのだろう。
自然の脅威に畏怖する段階では神などと言う観念は現れてはこない。
ただ荒れ狂う自然の猛威の収まるのを願ったのだろう。
それが自然の崇拝となり、崇めることになったのだが、何時の頃からか、自然の脅威を抑えてくれるもがあるのではと考え始めた。
自然のあらゆるものに聖霊が宿っているのではと考え始めてもおかしくはない。
いわゆる精霊信仰、アニミズムである。
その頃は口から口へ言い伝えられて出来上がるのがいわゆる神話と言うものになるのであるが、ある時点から文字に置き換えられることになる。
口から耳へ、耳から口へと伝承されたものが、文字に置き換えられてしまうと、権力者が現れて不都合を感じる様になると、訂正され、削除され、新たに書き加えられて、それまでの伝承とは全く違った政治的な史実が現れることになる。
自然信仰であったものに、政治的な色彩を帯びた神などが現れることになっても不思議はない。
それが我が国における古事記であり、書紀なのである。
その古事記などを見ても、神と呼ばれるものが数百も現れるに至っては、神の語源は何・・・・・を明らかにされるべきであるが、現代に至るまで、明らかにされたことはない。
古事記の序にある様に、時の権力者天武が帝記及び旧辞を検討して、誤りを正し、正しい姿のものを伝えようと計画したとある。
これは時の権力に都合の悪いものは削除したり改変したりして、都合の良いように書き改めよということなのである。
この様に我が国の史書なる記紀と言われるものは、権力者に都合のいい様に編纂された政治色の強い史書なのである。
その様な考えが現れると、政治的な色彩の強いものとしての神・・・その様に考えるものが現れる様になったとしても不思議ではない。
天の神が天下って、天皇の始祖になった、などと天皇を権威づけるために利用したとしても不思議はない。
人間の拙い脳みその働きであった。
特殊な能力を備えたものに煽られて、崇めるものの対象として、何者かを作り出したのが、神への崇拝の初めであったろう。
とは言っても、先にも述べたように、神とは何ぞやと問われても、答えることは出来なかったろう。現今においても、即座に答えられる人は恐らくいまい。
 
この地球上に、人間以外の生きとし生けるあらゆるものが、神だ仏だなど必要もなく、命を全うし子孫を残している。
何百年も生き続けた大木も時期が来れば朽ちて倒れ、その中から新しい命を芽生えさせている。
この壮大な自然の摂理に比べると、たかだか人間の貧弱な脳みそが考え出した神などと言うものを信じろという方が無理なのである。
神などと高いところで、人間を支配するものがあるということを、考える自体が間違っている。
人間がこの世に現れて以来、自然の脅威にさらされて、恐れおののき、それを逃れようとしたその精神があれば十分なのである。
 
自然崇拝の頃は、人の口から口へと、物事は口伝で伝えられてきた。
文字が生まれ、様々に記される様になると、様相が一変する。
文字化した様ざまなものを取捨したり訂正したり、様々な改変が加えられるようになってしまう。
それが宗教的なものであったり、史実的なものであったり、作り出すものの恣意が加えられるようになってくる。
それが聖書であったり我が国の書紀であり古事記である。
時の権力の思うがままのものに変革してしまうと言っていい。
 
その様な中から自然崇拝であった神が、政治的な色彩を帯びた神へと置き換えられても何ら不思議ではない。
所詮は人間の拙い脳みそから生まれたに過ぎない神であってみれば、人間の行いそのものと何ら変わりなく、ただ一段高いところに置いたものとして扱うようになってくる。
失楽園のミルトンが考え出した神とは言云っても、天使の軍団と争いごとをお越し、武器の強弱の違いで、天使どもの反乱を抑えたに過ぎない。
ミルトンが考え出した神とはその程度のものである。
強力な武器を携えたものが、神であるなら、この世には神が氾濫していることだろう。
神などというものを作りだして、人間を支配しようなどと考えるものが現れてきても不思議はない。
その自然の驚異から逃れようと、頼るものを作りだし神と名付けても、人間共の観念の産物に過ぎない神であってみれば、自然の脅威など抑えきれるものではない。
何も政治的に作り出された神などと言うものに救いを求める必要も何もないし、その神が自然を支配することなど及びも付かないのである。
我が国に於いては、口伝で伝わって来たものが、文字化され、恣意的に取捨選択されて、作り上げられた記紀によって、形而的な神などと言うものが創り出され、その手先として天皇がある。
文字のない頃から、口伝で伝わって来たものと、記紀に文字化されたものとは全く別物になったと考えていい。
記紀に書かれたものは作り上げられた神の子孫としての天皇家のために書かれたものと考えていい。
古来の自然崇拝の観念が政治的色彩を帯びたものに形を変えて、神としているに過ぎない。
 
ただ己の精神を平らかにするために、思い描いくものを神と称するのは人それぞれの思いであり、それをとやかく言うことは何もない。
その人にとって、気持ちが充足するなら、神を思うことで平安が訪れるなら、神と呼ぼうと、仏と呼ぼうと、はたまた宇宙と呼ぼうと、呼び方など何でもいい、単なる言葉の違いでしかない。
言葉などは如何呼んでも良い。
所詮、神などと言うものは人間が思い描いた産物、形而上のものに過ぎない。
人間の脳の働きは、千差万別。
自分の考えを他人に強制することは暴力でしかない。
人それぞれ、何を考え何を思っているのか、外からは窺い知ることは出来ない。
人がそれを言葉として、あるいは文字として外界から認識できるようにして、初めて外部と接触し、衝突が起こり争い事が起こる。
知能指数が百八十であっても、二百であっても、たかだか有限な考え方しかできないものが、自分以外を支配しようとするところに、争いが起こる。
 
人間だれしもが、心の中に持っているもの、それが過ぎると、人との争いになり地獄と言われるものになる。
一つひとつあげてみれば人間の欲や心に湧きおこる感情など、際限もなく留まるところを知らない。
 
色欲、貪食、貪欲、憤怒、暴力、悋気、吝嗇、阿諛追従、妬み嫉みいわゆる嫉妬、偽善、権力の乱用、裏切り等々人間の欲望は留まることを知らない。
暴力には戦争も含まれるだろうし、他人に対してだけでなく、自分に対する暴力もあろう。
この妬み嫉みと言われる嫉妬が様々な弊害をもたらす。
出る釘あるいは杭は打たれるなどと言うのは人間の嫉妬以外の何物でもない。
皆が信じ、崇め奉る神と言われる者でさえ、この嫉妬に対する怒りは激しい。
因みに、宗教について見れば、キリスト教などの神はこの嫉妬の塊かと思うほど嫉妬に狂っている。
ギリシャ神話に、我が国の古事記や書紀に出てくる神と呼ばれる連中の、この嫉妬によって起こる出来事の話は荒ましいばかりである。
この神と言うものが、人間が己と同じ次元のものとして考え出したものだから、それは当然な事なのだが・・・
神などと言っても自分の意に添わないと、悪魔だと言って駆逐しようとする。
中世において悪魔だ、魔女がと言って、神を信じる輩によって、神の名を借りて、どれほど苦しみや死に至らしめた人々がいたろうか、計り知れない・・・・・
現代においては想像を絶するほどのものが、神の名において苦しめられ、殺戮された。
その様な悪行を犯している神と呼ばれるものが、地獄に落ちないのは不思議だ、と思ったこともあるのだが、神って死なないとされているのだから地獄には落ちないよなあ~、等とつまらないことに納得している。
 
 
 
 
 
 
 
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