徒然の書

思い付くままを徒然に

旧約聖書の物語 つづき

前回よりの続き・・・
 
紀元前九百年代には、ダビデは両王国の中心に位置するエルサレムを拠点にペリシテ人らを退け、統一したイスラエル王国を築いた。
 
ダビデイスラエルの王になるまでの話は、古代の出来の悪い物語サムエル記に書かれている。
我が国の古代の物語もごつごつととして、読んでいて非常に疲れる。
しかも、神と呼ばれるものが、無暗矢鱈に人を殺せ殺せとわめく。
汝、殺すなかれ・・・・(出エジプト記20-13)
姦淫する事なかれ・・・・・(出エジプト記20-14)
等は嘘っぱちの様である。
ヤハウエーって神はどうにも始末に負えないものの様である。
 
ダビデ、ソロモンと続いたイスラエルの国が繁栄し、神殿を造営し、宮殿を造るに至っては、賦役に駆り出され、重税に喘ぐことになっていく。
ソロモンの政策が出身部族のユダ族優遇に至っては、他部族の反感を買うは目に見えていた。
部族間の不信と不満はソロモンの死で一挙に爆発、北イスラエルの部族が反旗を翻した。
ユダ族ダビデ家によるイスラエル支配を拒否して、イスラエルは南北に分裂した。
分裂後の北イスラエルの最大の課題は宗教政策で、エルサレムの神殿に変わる神殿を造営することであった。
経済的には豊かとは言え、周囲の国の脅威に晒されていた。
神の目からすればエルサレム14:21イスラエルのすべての部族のうちから選ばれた町(列王記上)と表現されている。
また、15:4、主はダビデのために、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、その子を彼のあとに立てて、エルサレムを固められた。(列王記上)と書かれているがそれは、8:19主はしもべダビデのためにユダを滅ぼすことを好まれなかった。すなわち主は彼とその子孫に常にともしびを与えると、彼に約束されたからである。(列王記下)
 
依怙贔屓の強い神にしてみればダビデの子孫の王が、悪政を重ねても、目をつむっていたのだろう。
依怙贔屓をして、悪政を見逃し、それでも己に信を置けとはまた土台無理な話である。
人間の心を知らぬ神など敬えと言われても、とても敬えるものではない。
敬えないんなら罰を与えるなどとは、悪垂れ坊主と何ら変わりはない。
こんな神を信じなければならないなんて、人間ってとても悲しい生き物だ。
列王記下一七章五~十八に北イスラエル滅亡について書かれているが、要は己の依怙贔屓と嫉妬を棚に上げた独りよがりの憤りが書かれている。
 
傲慢で懐疑的で、嫉妬深い神にしてみれば、過去の出来事を振り返るまでもなく、それを許すほど度量が広くはなかった。
他の神を敬ったという、嫉妬に狂った者のすることは、人間も神もすることは同じと見える。
自分の力で動かせる筈もない異教徒の力によって、あたかも自分が罰を加えた様に書かれているのが何とも子供じみたガキの言い草の様な気がする。
神と言うものの倨傲でしかない。
イスラエルはその後アッシリアによって滅ぼされるが、どうして滅んだかが書かれている。
列王記に書かれたところを凡その処は・・・・・
 
神はエルサレムを自分の町に選んで、ダビデ王に支配をゆだねた。
ダビデの子ソロモンが北イスラエルに過重な賦役と税を課し、ユダ王国を優遇した不満が北イスラエルにあった。
神にしてみればエルサレムは俺の町だと思っていたのが、北イスラエルの連中が他の地に神殿を立てたことは、己に対する裏切りだと思ったのだろう。
依怙贔屓をして、いじめられれば逆らいたくなるのが人間と言う生き物の習性。
 
神がイスラエルの人々の前から追い払った、諸国の民の風習に従った。
神が民にあなた方はこのことをしてはならないと云ったのに偶像を立て、香を焚き、偶像に仕えた。
神はすべての預言者、すべての先見者によって、イスラエルとユダを戒め、あなた方の悪い道を離れ、私があなた方の先祖たちに命じ、また私のしもべの預言者たちによって、あなた方に伝えたすべての律法の通りに、私の戒めと定めを守れと言ったが彼らは聞き入れず、彼らは神の定めを捨て、神が彼らの先祖たちと結んだ契約を破り、また彼らにあたえられた警告を軽んじた。
それが神を怒らせた。
その結果、神の前からユダの部族の他残ったものはなかった。
この列王記の部分はユダに対しての警告でもあった。
凡そこんなことが書かれているのだろう。
 
神の言いたいことは、彼らの神に対して罪を犯して、他の神を畏れ敬った。
異邦の民の風習とイスラエルの王たちが作った風習に従った、ことに神は激しく憤り、神の前から姿を消すように仕向けた。
ただユダの部族だけは残した。
要は神に対して従順でなく、神が与えた律法を守らない事、これが神に対する罪であるというのである。
人間に対する脅し、脅迫である。
要は激しい嫉妬であり、倨傲でしかない。
裏切りに対する報復じゃないか・・・・
復讐は天に在りという言葉がある。
天即ち宇宙から見れば神など一粒の砂に過ぎない。
神など宇宙の芥子粒の地球と言うものの上にいる、人間と言う生き物の、ほんの一部を手懐けただけのものに過ぎない。
それが報復のために、北イスラエルを消滅させるなど、傲慢と言うほかはない。
この時代に限らず、現代に於いても繰り返される殺戮は、神と言うか、宗教というか、それらに依って人間の精神の中に埋め込まれたクリミナルマインドと言うほかはなかろう。
 
彼らの王国がアッシリアの滅ぼされたことが、その罰なのだという。
己がアッシリアを動かして、北イスラエルを滅ぼしたような書き方だが為されているが、如何に神ではあっても異教の神では、異教徒であるアッシリアを動かすことはとてもできまい。
王国を滅ぼしてしまうとは、何とも傲慢、横暴な振る舞いであろうか・・・・・
尤も、神の傲慢横暴はいまいま始まったことではないのだが・・・・・
そして、あのイスラエル近辺のごたごたが収まらず、未だに人々が争っているのは、ヤハウエーとかいう神の依怙贔屓があっちへ行ったり、こっちへ来たり、愚かな人間のする様に定まらないからであろう。
この偏向に満ちた途方も無い話から敷衍すると、アブラハムダビデなどにできもしない約束をして、現代にまで続く紛争の種をまいたのは他ならぬヤハウエーと言うことになる。
同じ人間をいじめるにしても、ヤハウエーと言うのは、ギリシャのゼウス大神のような、爽やかさのない、陰湿な神の様である。
 
旧約聖書などと言うものを物語として読むとき、現代における時代物作家が史料を研究しながら書いた時代小説よりも面白味もなく、その時代の真実の姿を描き出してはいない、そんな気がする。
反面、これを宗教経典としてみるとすれば、こんなものを信じている者が世界に散らばっていることを考えると、様々な国で繰り返される殺戮は当然なんだろうと思わざるを得ない。
 
いやいや、これは人間の書いたもの、神などと言って崇めるものを作りだしても、人間は神と言うものをこの程度にしか、理解できなかった。
どんな宗教経典であっても、神の言葉、仏の言葉と言っても、所詮は同じ人間の書いたもの、修業を積んだ聖人とは言っても、所詮は人間、考える事は我等と何ら変わりがないということである。
人間の心の貧弱さを表したものである。
宗教経典、聖書などと言っても人間の貧弱な心が書いたものに変わりはない、人間の浅知恵が随所に出ている。
それ故に、神の言動に人間の悪行がそのまま表れている。
例え神と言うものがあったとしても、人間などに神の領域など解かるものではない。
人間などは何でも己の都合の良いようになるなどと思たりするものである。
人間の頭で神を想像して書こうなどとは思い上がりも甚だしい。
それこそ不遜と云うべきであろう。
傲慢も依怙贔屓も横暴な行いも、人間そのものの心の内に潜む悪行ではないか。
人間の貧弱な思考過程から作り出され、生贄にされた神や仏こそ哀れである。
 
 
参考
聖書の考古学                  長谷川修一著                  中公新書
旧約聖書 列王記 上、下
サムエル記        上、下
 
 
 
 
イメージ 1
 
 
(本ブログの全ての写真は著作権を留保。無断使用・転用・転載・複製を禁ず。)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー