徒然の書

思い付くままを徒然に

江戸の似非学者吉田松陰


松蔭は私塾、松下村塾で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者を育てたことになっている。
だがその実像は全く違うと言っていい。
一言でいえばテロリスト養成学校とでも云えばいいのかも知れない。
それ故か、花見に浮かれる江戸の町人たちを見て、蔑んでいたという話もあり、心の狭い余裕のない輩であったようである。
 
吉田松陰は長州の下級武士の二男坊として生まれた。
下級武士の二男坊は厄介叔父とも言われて、婿に行く以外一生日陰の暮らしを強いられていた。
婿に行く条件は様々であるが、その人物が人に優れた何かを持たなければ殆ど婿の口はかからないと言っていい。
意欲のあるものは、武道に励むか学問にはげむかするのだが、そうすることもない輩は無頼の徒として一生を送る以外になかったようである。
歴史上の人物評は様々に書かれて、どれが本当の人物であったのか判断が難しい。
この松蔭も次男坊で、幸い叔父の養子になって、山鹿流兵法を以て長州藩に仕えたとされているが、僅か十代の兵法師範がどの様な目で見られたかは想像に余りある。
十一歳で四書五経を藩主に講義したなどと、書かれたものもあるが、単なる素読程度の繰り返しの学問では、講義するほどの力はなかったろう。
素読と言ってもそれなりの効果は十分期待できるが、内容の伴わない四書五経は講義でいる代物ではない。
後に山鹿流兵法も時代遅れになったとして、放棄している。
太平の世が二百五十年も続いて、戦の何たるかもわからない青二才が、秦国がアヘン戦争で敗れると、西洋兵法を学ぼうとする。
四書五経にしても、素読に終始して、孔孟の根本が誤っているとか、山鹿流の兵法を駆使する能力も頭もない者が、他国の戦争を見てすぐに放棄する軽薄な精神の持ち主であった様である。
松蔭と言えば、多くのものは博学の学者で、多くのものが集まるほど慕われ、
明治の代に多大な影響を与えたと言うものが多い。
後に述べる水戸学についても、表面だけを撫でてすべてを理解したように思っている、浅薄な男であったようである。
兵法などは書かれたこと自体に意義があるのではなく、それをどの様にもつ逢いこなせる頭脳を持っているか、只々それ如何に掛かっているのである。
山鹿流のもととなった孫子の兵法に於いても然り。
その後、東国への旅の途中水戸に立ち寄って、一か月ほど逗留した際に、水戸学を学んで、己を悟ったという。
たかだか一か月程度の滞在で、義公から始まった前期水戸学、斉昭以後の後期水戸学を学んで、己を悟った、孔孟の根本が間違っていると公言するなど、何とも浅薄な思考しかできない輩だと思われても仕方るまい。
この程度の学識て、投獄された時に己が言った孔孟の根本が誤っていると高言している孟子を牢獄の囚人相手に講義したという。
何故この程度の男に、長州の下級武士や中間足軽の連中とは言え、集まって来たのかを理解するのは困難であるが、漢の高祖、劉邦も百姓で、街をふらつく侠客然とした無学な男であり、また秀吉がいい家来を有していた様に、人たらしの素質があったのかも知れない。
ただ、それ程の学識があるとも思えない松蔭のもとに集まった者たちに何を教え何を講義していたのだろうか。
幕末の状況を考えると、後期水戸学の上っ面、尊王であり、国体の護持であったのかも知れない。
ただ長州の連中が討幕運動と称して、山形や伊藤が諸藩の脱藩浮人を扇動してかあるいは共感してか、京の町でテロ行為に励んでいたことは事実であり、これは恐らく松蔭に扇動された。
直接にかあるいは言外にかは確かであないが、その後の長州の暴徒の行動を勘案するとその過激さが浮き彫りにされてくる。
御所にに大砲を打ち込むなどは尊王を標榜する者としては言語道断と言うよりも考える事さえ憚られる行為であろう。
長州藩閥の行動の過激さは明治になってからの戊辰戦争に於いてもその実態は現れ散る。
元々、会津藩天皇家とも通じており、天皇家に敵対していたわけではない。
長州が偽の綸旨を造り、錦の御旗を掲げたことで、会津は朝敵の汚名を着せられ籠城から開城するまでの間ほぼ一か月の間、城下町を強奪、強姦、殺戮あるいは放火繰り返し、朝廷軍と称する、長州兵に思うまま蹂躙されたという。
松蔭の弟子として集まったものは明治政府に多く名を連ねているが、そんな連中が京の都のテロ行為、或は戊辰戦争で強奪殺戮の血塗られた手で、維新後の政をし、長州以外の人物を排除するべく手段を講じ、藩閥政治へと突き進んだ。
これが松蔭が教育したという者たちによって為されたことを考えると松蔭の斬首は当然すぎるくらい当然と言っていいであったろう。
 
会津若松城下に朝廷軍が乱入して、一か月市民は暴虐の限りを尽くされた。
強奪殺戮、放火多くの証言が記録されているが都合の悪い悪事の抹殺に、明治政府は権力を持って対応した。
日光口総督として、戊辰時に従軍した山川浩京都守護職始末を著わした時、長閥の山形有朋が強大な権力でその発行を阻止した。
上梓がが阻止され日の目を見たのは十年後であったという。
―――エッセイで楽しむ日本史  
エッセイ 会津開城  長州が勤王とはおこがましい  五月女 貢
 
 
また現今に至っても、会津の人々が長州人に、怨み、憎しみを抱いたとしても、人間としての当然の情であろう。
明治の時代の狂った長州人のDNA、遺伝子が現代の人々にまで刷り込まれていないと断言するには余りにも時代が近すぎる。
世に有名な池田屋事件などは、尊王を標榜する長州人が天皇を誘拐し、京のテロ、暴動を守護する、京都守護職の容保を弑する談合を新選組に察知され、急襲された事件であった。
この時も、桂小五郎こと木戸光允は仲間を見捨てて逃げ出している、姑息な輩である。
おのれの手記には池田屋には行かなかった、と記していたというが、池田屋の屋根を伝って逃げ出したのを記録していたものがいた。
松蔭などと言う半端者が幕末を我が物顔に扇動しなかったら、或は日本の現代も変わっていたのかも知れない。
元凶は只々、権力を手中にすべく多を排除し藩閥政治を強行した長州の暴挙、それに加担した岩倉などと言う無能な公家衆が明治を暗いものにしていったのであろう。
維新を前に有能な人材は殺戮されあるいは病没するなど、明治政府に登場したのは、松蔭に洗脳された無学文盲の下級武士や足軽中間であった。
 
三条実美の朝廷出勤を止め、長州藩の宮門警備をやめ、変わって薩摩藩に命じられた。
尊王攘夷を主張する者を朝廷から締め出した。
一旦長州に帰った者たちも諸国の浮浪人を集合して上京するも、幕府各藩の目に敗れている。
これが蛤御門の戦いとか、禁門の篇とか呼ばれるものであるが、この時も松蔭の塾生が多く参加し死亡している。
要は、松蔭自体確固たる学識があったわけでないのだが、たまたま水戸に滞在中に我が国の国体について聞きかじり、己なりに解釈した結果の尊王であり、国体についての知識であったのだろうが、その方法論に誤りがあった。
国体の護持を強調するあまり過激な思想を塾生に吹き込んだのであろう。
たかだか一か月の水戸滞在で、前期、後期に亘る義公以来の水戸学の真髄を理解することは凡庸な頭脳しか持ち合わさない松蔭にとって不可能であったろう。
その水戸学の解釈に誤りがあったということである。
その結果が国体の中枢である、天皇の館即ち御所に大砲を打ち込む様な塾生を育てた、馬鹿な男でもあったということである。
その間違った考え方を明治の代に持ち込んで、長州閥を作り上げた、姑息な木戸光允や中間の山形有朋であり伊藤俊助であった。
松蔭門下でいい思いをしたのは明治の代まで生き残った、先の三人であり、明治の代まで辿り着けなかった多くの者、蛤御門の変久坂玄瑞入江九一等の優れたものが命を落としている。
その結果、幕臣榎本武揚などと言う節操のないものを使わざるを得ない羽目に陥っている。
 
孝明天皇の努力で朝、幕の関係がいい方向へ進んでいたのだが、孝明天皇が暗殺されるに及んで、事態は急転する。
歴史は常に勝者が記する者であり、敗者は何も語れない。
この孝明天皇暗殺劇も単なる病没で処理されてしまった。
様々な説があるが有力なのは、岩倉具視の妹によって毒を盛られたという説が一番納得できるような気がする。
勿論女が自分の意思で暗殺のために毒を盛るなどと言うことはありえない。
明治の代は、長州の権力者以外、文明開化などと浮かれている時代ではなかった。
文明の利器を手に入れると、戦争したがるのが人間と言う生き物。
この暗い世相の明治の世でも、日清、日露の二度の戦争によって数限りない命が失われている。
戦争を引き起こす権力者は何時の時代も安全な後方で、高見の見物であり、命を的に戦うのは国民なのである。
 
 
参考文献
エッセイで楽しむ日本史  文春文庫
エッセイ 会津開城  長州が勤王とはおこがましい  五月女 貢ほか
 
物語日本史                         平泉 澄著                         講談社学術文庫
 
 
 
 
 


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