徒然の書

思い付くままを徒然に

灯篭への興味は尽きない。


お寺へ行くと必ずあるのが灯篭。
そんな灯篭に気を留める人は少ないが、それもそのはず、もとはと言えば、原形は中国大陸から朝鮮半島を経由して仏教とともに伝来した。
その姿や材質は様々。
材質の違いから木灯篭、陶灯篭、、石灯篭などがあり、形状の違いから台灯篭(置灯篭,立灯篭),釣灯篭などがある。
灯籠は神仏に灯明を献ずるためや、交通の照明としてあるいは、庭園内では鑑賞のための庭灯篭が置かれた。
 
 


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これは金灯篭と言うのであろう。
天辺の宝珠が良い姿をしている。
 
 
 


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自然石を組み合わせて作ったものか、いずれ形を整えたのだろうが、自然な姿がとても興味を引く。
奥の社は弁天堂。





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この松の木の間に置かれた灯篭はお堂の真正面に在ってとても面白い姿が興味を引く。
灯篭と言うものにはとても興味があって、時として寺へ行ったときは面白そうな姿のもはつい撮ってしまう。
 
 
 
万灯会と称する仏教行事が古い都奈良辺りで、古代から行われていたのが現代に続いている。
一度はその万灯会と称するものを撮ってみたいと思った事はあったが、奈良まではあまりにも遠い。
それを捩ったのが、高幡不動の商店街で行われた時出かけてみたが、余りにも前置きの能書きが多くて早々に嫌気がさして帰ってきてしまった。
そもそも、万灯会は、、1万坏あるいはそれに準ずる多くの灯明を燃して仏神を供養する法会。単に万灯とも言われる事もある。
万灯会に対して千灯会といわれるものもあった。
 
平安時代になると東大寺では年中行事として毎年十二月に大仏殿で行われた。薬師寺では九世紀終盤、慧達により万灯会が創始されてから毎年三月に、飛鳥元興寺では毎年十月に行われていた。
また高野山では空海により始められ、京都の諸寺でも盛んに行われるに至ったという。
たとえば極楽寺万灯会藤原道長による法興院の万灯会、その他様々な処へ広がり、四天王寺中尊寺北野天満宮などでも行われたという。
長者の万灯よりも貧者の一灯の献灯を強調しているが、室町時代後期ころからは広く庶民に一灯の献灯を勧進して万灯会が行われるに至った。
良く知られた四字塾語として貧者の一灯と言う言葉があるが、この出典は阿闍世王受決経
であるらしい。
四字熟語辞典を参照してみると・・・・
 
古代インドマガダ国の阿闍世王が、屋敷から帰宅する釈迦のために、その通り道に一万もの灯火を灯した。
それを見た貧しい老婆もやっとのことでお金を工面して、たった一つの灯火を灯した。すると王の灯火は、消えたり油が尽きたりして、ことごとく消えたが、老婆の灯明だけは朝まで消えなかったという。
出典は阿闍世王受決経。 ―――四字熟語辞典 学研版―――

それを目連尊者が片付けるために消そうとしますが、なぜか消えません。目連は「神通第一」といわれ、超能力に優れた弟子です。その目連が必死に消そうとしても消えませんでした。お釈迦さまは「目連よ、そなたの神通力によっても、この燈は消すことができないのだ。なぜなら、この一燈こそ、真の布施の燈だからである」と言われました。
―――コトバンク 貧者の一灯の言及 世界大百科事典――――

この様な逸話が仏典の中には良くみられる。
万灯会には貧者の一灯の比喩が付いて回る。
仏典など法華経あたりの比喩品はこのような比喩があふれている。
時には紐解いてみるのも、心にしみじみと感じるものがあるかもしれない。
 
そう言えば、万灯会の当日、献灯の受付をしていたなあって今更に思い起こしている。
とは言っても、元来が無信心な我には献灯など思いも及ばないが・・・・・
万灯には仏に対する様々な思いが込められており、一人一人の敬虔な気持ちの表れがあの灯明になっているのだと改めて思い知ったといえる。
闇の中に浮かぶ灯りと言うものは、いかなる人間にとっても心に安らぎを与えてくれるものなのだろう。
仏とは係わりないと思っている吾でも、闇に浮かぶほのかな明かりを見るとホッと心に安らぎを覚える。
 




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これは寺の境内の一角、空きスペースに並べられた置き灯篭であるが、灯篭流しなどでお馴染みの物のものであろう。
盂蘭盆会などで行われる、あの精霊流し、を経験した人はその風情の幻想をいつまでも心の中に思い浮かべる事があるだろう。
あんな風習も今はほとんど行われることも少なくなったのではなかろうかと思うと随分と淋しい気がする。
現今の人間と言う生き物が、神経をすり減らして生きているためか、古来からの風習がどんどん失われても、ほとんど気に止めなくなっているのは寂しい限りである。
行政辺りに言わせると、精霊流しの後のごみの始末が大変だなどと現実的な事で禁止することも多いと聞く。
己らのわずかな経費の節減で幾らでもそれらの費用は捻出でき様・・・・
小さな時に経験した幻想的な雰囲気は、何時までもいつまでも、心の底にしまいこまれ時として、意識の上に浮かび上がって、己の来し方を振り返る縁になろう。
そんな心の余裕が欲しい。
 
 
 


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