徒然の書

思い付くままを徒然に

徒然に古いことどもを思い起こして~~

随想。

昭和、平成、令和と三代の御代を生きてくるなどとは思ってもみなかったことでございます。

こう長く生きてみて昔の日本といまの日本とはどう違うのかとおっしゃる。

左様、昔はその、もっと人間の血が熱うございましたね。

ま、こうして、文明が発達してまいりますと、何しろあなた、コンピュウターとかいうものを使って、様々な事を瞬時にやってのけてしまうというのですから大したもので。

多少ぼんくらでも、一人前の顔ができる世の中になっているようです。

では今と昔はどの様にちうかとおっしゃる。

何事も安易に出来る世の中になってしまいました様で・・・

その代わりあなた、人間の血が冷えてしまいました。

つまり自分がよければ他人は如何でもいいという~

でもね反対に人間の血が熱くなりすぎてもこまるのでございますよね。

このところの兼ね合いを取ってくれるのが政治というものなのでしょうが。

もうほんの少し前の政治屋の世界の者たちの様な覇気のある人々はいなくなってしまいました、小粒の政治屋ばかりが幅を利かせている様な世の中になってしまってはね。

とは言ってもね、明治の代とて本当に覇気のある政治屋っていうのはたんとはいなかったように思いますがね。

それはそうでしょう、西国の藩の下級武士や足軽連中やあるいは不平不満の塊のような公家が大騒ぎして作り上げた、政治とはなにかも分からずに、大騒ぎして作り上げた政治ですからな。

ほんのちょっと、西欧の視察を行って、見よう見まねで、行っていたんですからね。

きっちりとした信念で、日本という国の事を考えていたもの達は、新しい世が生まれる前に、あの世に旅立ってしまいましたからね。

生きていれば日本という国も随分と様変わりしていただろうがね。

残ったのは滓ばかりではね・・・

昭和の初期の頃に外国の盛大ばかりをうらやみ己の財力を顧みずに、みだりに事を急に起こしたれば、ついに国自体を立ち行かなくしてしまった。

五十年も七十年も生きてきて、昭和の半ばごろの私に比べたら、まるで屁の様な・・・・いやこれはまたげすないいかたですね~

思い起こしてみると、あの頃はまだまだ、人情というものが大らかであったように思うがね。、

女房に先に逝かれてからは、今の住まいの外へ出たことはありません。只々昔の様に年寄りをいたわってくれることのない政治が、あるいはそのほかの所でも、行われているような気がしてまりませんね。

子供の頃のことを考えてみるに、人々にはもっと人情実があったような気がしてなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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最近のコロナとワクチンに思う

外国からの情報では、何やら新しいワクチン(オミクロン用)の接種が始まった様なのですが、4度目も21%しか接種した人がいなかったから、この新しいワクチンも打つ人がほとんどいないのではと思います。

という外国の人々の意見もあるようです。

ワクチンを打っても感染するようでは、副作用で2~5日も苦しめられるようなワクチンではワクチンともいえない。

ワクチンで苦しめられたからといって感染しないとは限らない頼りないワクチンでは、何のための接種かという事になる。

コロナのワクチンの考え方について根本的な誤りがあるのではないのかとさえ思う。しかも実感としてはワクチンが新しくなるに従いその有効期間が短くなっているような気がする。

新しいものが次々に出ても副作用のひどい症状が出る人は勢い敬遠するでしょう。外国のある国では外出先の人ごみの中でも、マスクをしている人は滅多に見ない画像が出ております。

只製薬会社に踊らされているような気がする。感染してのほとんどが軽症で、普段の生活と何ら変わらない状態であれば、二週間も耐えれば、その後は何の影響もないなら、特に目くじら立ててワクチンを接種する必要がどこにあるといいたくなる。

外国の会社では社内の多くの人が感染経験者だという所もあるようで、感染してない方が珍しい現象なのかも。

このコロナの変異が続いて感染したが最後、死を意味するようであれば、人々の感覚も全く違ったものになるであろうが~。

今わが国では感染者が続発してはいるが、その多くは自宅治療に回されている。自宅治療って、行政がどれほど面倒を見てくれるのか、そして外出を禁止しているのか、は知らないが、私が思うには単なる軽い風邪ぐらいにしか考えていないのではないのだろうか。

そしてその感染者が、自宅に籠って快癒を待っているとはとても思えない。

外出してもほとんど体調に影響のない程度の軽症者は、何の問題もなく街中を出歩いているのではなかろうか。

自宅療養のレッテルを張られたからといって、そのものの外出を監視しているわけではないだろう。以前市役所にその件で問い合わせたことがる。

軽症者といえども、感染源になることは当然といえば当然。

体内にコロナを抱えて呼吸のたびにコロナを輩出しているのだから。さらに全身ににコロナウィルスを纏っていることだろう。

それでも、それは管轄違い市役所はタッチしないという。それが拡大の原因になっているような気がしてならない。マスクをしている態を採っていてもマスクを下げて、鼻をを出して歩いている輩のなんと多いことか。

今の医学の稚拙さではコロナに対処できるまでには数年いやもっとかかるかもしれない。医学が発達したとは言っても、それは医療機器の発達だけであって、病原に対応する頭脳の発達ははるか昔の医療関係者には遠く及ばいと思っている。

医療機器がはじき出した映像なりの読むことが今の医学の主流で、機器を使わないで昔流の触診などでは病名さえわからない医師が多い。

ここ数十年不具合があって、病名を聞いてもはっきりと病名を教えてもらったことがない。

現コロナが変異を続け、感染したら死を意味するような強力なウィルスに変化したら、今の医学はまったくのお手上げ。

14世紀に欧州の人口の三分の一を奪ったようなペストの様な病原に変容しないと誰が断言できる。

その様な事態になれば世界の人口の半分は失われるであろう。

いや地球上の六番目の絶滅種になりかねない。

コロナの変異が穏やかであることを祈るばかりである。

今まで感染しないで来たのだから、同じような感染回避の方法をする以外にはないが、感染するならするで構わないと思うようになっている。

それが死に結び付くとしても・・・・それが己の生きざまないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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重陽の節句に思う

重陽節句九月九日は旧暦の行事。

現代版にすると十月四日ごろになろうか。
とはいえ陰陽思想では重陽節句は陽の数の極みである九が重なる日であることから重陽と呼ぶようになったのであり、十月四日では意味をなさない。
この節句が行われる様になったのは、たまたま旧暦の時代であったというに過ぎない。
ただこの節句の頃には菊が美しい時期だあったことから、菊の節句とも呼ばれるようであるが、現代では菊の時期とは少しずれているようである。
したがって、菊の花を飾ったり、菊の花を浮かべた菊酒を飲むことはかなわない様であるが、かっては菊酒を飲んで、無病息災をそして不老長寿を祝ったものである。
だが時代が変わって菊酒で祝うことも出来なのだが、現代の日本では無病息災はいいとしても、不老長寿を祝うなどというのはちょっと的が外れている。
古代中国はいざ知らず、現代の日本の様に行政による老齢者いじめの激しい国での不老長寿は、苦しみを増すばかりの長寿であることは覚悟しなければならない。
行政による老いぼれ虐めを、指折り数えてみれは、両手を使ってもまだ足りなかろう。
老人にとっては恐ろしい国ではある。
敦盛にある様な人生五十年とは少し意味が違うが、人生を楽しんだ五十年を過ぎたら、そろそろとお暇を考えるのがいい。

吾などは長生きし過ぎたと、悔やむことが多い日々である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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生きて地獄を味わう恐ろしい国日本

またコロナの急増に政治屋や官僚どもは、大ぴらに企業に金をばらまけると,ほくそ笑んでいることだろう。
とにかく企業優先の国、二千五百年間前にいみじくも老子は見抜いていた。
彼によれば、天が活動する仕方は、高いところは抑え込み、低いところは持ち上げる。余りがあれば減らし、足らなければ補う。
人間にやり方はそうではない。足らない方を減らし、その分を余りある方に奉る。

庶民から、税や高額な保険料で巻きあげて、企業に金をばらまく、企業のための政。
日本という国の政治屋や官僚という輩はまさにこれ。

今年の初めニュージランドでは年金の支給額を増額した。
ところが老いぼれ地獄を自認する日本では、反対に年金額を引き下げ、引き下げに輪をかけたように、介護保険料及び後期高齢者医療保険の及びもつかない増額を実施した。
老いぼれにとっては日本という国、いや日本の政治屋や官僚は鬼畜にさえ見える恐ろしい国である。
支給した年金を食い尽くすまで、老いぼれいじめは止むことがなかろう。
老いぼれにとっては世界最高の恐ろしい国であるといえる。
老いぼれると、生きて地獄を味わうことになる。
こんな国が文明国に存在するのだという事を、日本という国に住む、老いぼれ予備軍は覚悟する必要がある。
この先、どの様な名目で、支給した年金の巻き上げが行われるか、名目や膏薬はどこにでもくっ付く。

あらゆる名目をつけて、老いぼれいじめに余念がない。
とにかく日本という国は老いぼれにとっては地獄の閻魔よりも恐ろしい国ではある。

地獄の閻魔も舌を巻いて居よう。
人生五十年で終わるべきであった。
ニーチェ永劫回帰はこんな日本では味わいたくないものである。
ニーチェには悪いが、これは彼の妄想以外の何物でもないと思う以外にない。
輪廻転生とは言うが、二度とこんな国には生まれたくない。

散歩とは~

 

夫婦で散歩して、そぞろ歩いた道の光景を写し取って、ファイルを蓄積するなどは現代の余裕の一つなんだろうね。

よくね,色々な所で、散歩っていう言葉を聞きますよね。

では散歩って何なんだろうって、よくよく考える事があるんですよね。

目的もなくそぞろ歩くのが散歩って言うのも、この頃の散歩の概念としては正解なんでしょうね。

日本の文化の中で散歩って、目的もなくそぞろ歩くっていうのが、室町の頃からの意味だった様ですが、明治の頃に西洋文化が入ってくると、散歩イコール運動を意味するようになってくるんでしょうね。

これはただ目的もなく歩くっていうのは、西洋人の合理主義とは相入れない様で、歩く事で運動を兼ねる様になってくる。

だが、漱石吾輩は猫であるに、「吾輩は近頃運動を始めた。」という一節があったように記憶しているが、ここでいう運動は飛んだり跳ねたり、走ったり、筋トレしたり、あるいはどんなかスポーツをプレーすることを言っているのではなく、健康のために歩くこと、何ですよね。

つい先頃までウオーキングなどという言葉の運動を兼ねた歩きが大流行りで、せかせか歩いていた姿が思い浮かびます。

特にあのバブルのころの人々は、そぞろ歩きなどという事は全く眼中になかった。

ですから、今でいう散歩すなわちそぞろ歩きなどを考える人々はほとんどいなかった。現代のそぞろ歩く散歩っていうのは現代人の心のゆとりなのであろうか。

我の様に老いぼれて来ると歩くことは足を鍛える為が当然に含まれて来るのですが、人間歩けなくなったらお仕舞という観念が頭の隅にあるからなのだろうと思っているんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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手作りヨーグルトの功罪

手作りヨーグルトの功罪

手作りヨーグルトメーカなるものが出始めて、ヨーグルトの手作り全盛の感があるが、多くの人は奇麗に固まったヨーグルトを見て大満足をしていることだろう。

市販のヨーグルトを種にして作られた、手作りヨーグルトは種につかったヨーグルトの成分がそっくり出来上がったヨグルトに移っていると考えている人がほとんどだろう。

果たしてそうだろうか。

市販のヨーグルトを種にして手作りされたヨーグルトは、ほとんど種にされたヨーグルトの成分は引き継がれていないだろーと思っている。

手作りされてたヨーグルトの成分の検査を依頼した一般人はほとんど皆無だろう。

出来上がったヨーグルトは種になった市販のヨーグルトをそっくり引き継いだと思っている人がほとんどなのではないだろうか。

対して種菌として、粉末状のものを販売しているものからの手作りヨーグルトは能書き通りの効能を持ったヨーグルトが出来るのは間違いないのだろう。

能書きに書かれた種菌が増殖されたヨーグルトが出来ないとすればそれはサギ。

ただ手作りヨーグルトでも種にしたヨーグルトよりは劣っても同等に近いものが出来ることがあるとすれば、それを種に手作りするといい。

ただ内容を問題にしないでヨーグルト状のものが出来ればいいという人は、ここでは問題外。

このようなただの発酵乳、効能のないヨーグルト状のものではあっても、ギリシャ風にして水切りヨーグルトを作るととても美味いギリシャ風ヨーグルトが出来上がることだけは確かである。

クリームチーズのような感触、ちょっと洒落たトッピングをのせるだけで、上品なおやつが出来ることは間違いない。

繰り返して言うが、これも分析をした結果の事ではないのでご承知おきの上、市販のヨーグルトを種にして、手作りヨーグルトを作っても種にしたヨーグルトの成分がそっくり手作りのヨーグルトに移し替えられるとは思わない事である。

市販ヨーグルトの売りにしている成分は、ほとんど手作りしたヨーグルトには移転しないものと思って手作りした方がいいように思う。

ただし市販ヨーグルトメーカが、手作りしたときそっくり成分も移りますよというのであればこれはまた別の問題。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ウナギのぼりの感染者

 

七月末の全国の感染者数過去最多の一万二千三百四十一人。

この先、どこまで拡大していくか予測がつかない。

打つ手を知らない無能な政府や地方自治体。

尤も、今、、感染者として発病しているのは、オリンピック開催前後に感染した者が発病しているのだろう。

世界のあちこちで変異種が暴れまわっている昨今、こんな時期にオリンピックなどを開催すれば、コロナが爆発することは、わかり切ったことではある。

オリンピックの期間中は外に出ないで、家でTVでも見てろは無責任な、傲慢な政治屋の言いそうなことではある。

月末には一万人を遥かに超えた爆発に、対して打つ手を知らない無能な政府は如何に国民に責任を取るつもりか。

そのうち変種が猛威を振るって、重症者が続出するようになれば、オリンピック開催を強行した輩はどう責任を取る。

常とう手段の、責任を取って職を辞します、退職金を下さいでは破廉恥の上塗り。

緊急事態宣下を出せば沈静化するなどと安易な思考しかできない輩には、あとは罰則を設けた外出禁止令しか思いつかないであろうな。

となると国民の生活はどうなる。

またぞろ買いだめに走るものが続出しよう。

そこでまた得意の企業保障とかもっともらしい理屈をつけた金をばらまく。

金をばらまくのに悦びさえ感じているのではないのか。

そのばらまいた金はすべて国民の負担となって、何十年にもわたって国民をくるしめる。

零細な企業や商店主は、通常の利益に勝る保証で大喜びしている。

何ともお粗末な為政者である事よ。

以前高齢者の介護保険の大幅な増額の際、市に問い合わせてことがある。

その時の返答は、年寄りは年寄り同士助け合えだった。

高齢者が介護を受けるについて介護保険を払うこと自体問題であるが、考え方が逆転している。

保険などというものは、利益を受けるものが払うのが通常の考え方。

介護をしなければならない義務者は老齢者ではなく、それら高齢者の子供たちである。

その介護しなければならない子供たちが己らの代わりを務める介護者に金を払うのは当然の論理。

老齢者はただ介護を受けるだけの存在。

それに保険料を払わせるなどという事自体が、政治屋どもの頭の構造が逆転しているだけの事。

年寄りいじめの国ニッポンで、世界に知れた面目躍如な逆転頭脳の為政者らである。

何とも恐ろしい国に生まれものだと、死に際になってつくずく思い知ったものである。

老人同士助け合えなどというのはまったく破廉恥とさえ思える小役人の返答であった。

その論理を使えば、企業保障を国民が負担するのは論理が合わない。

企業は企業同士助け合えという事にならざるを得ないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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