徒然の書

思い付くままを徒然に

縁起物の植物 万両

先日園芸コーナーで満了の鉢物を見つけて、写真を撮り始めたころの事を思い出していた。
滅多に買うことも無いのだが、興が湧いて鉢物を買ってくると、その花などに似合いそうな背景の処へ持ち出して画作りをする楽しみもある。
それまではつくづくと花など眺めたことも無かったのだが、花、植物の写真を撮り始めたころ、その植物や花の微妙さに随分と感心したものである。
この万両もその一つではああったが、このお金にまつわる植物が随分と在ることに、昔から人間と言う生き物はお羽と言うものに魅力を感じ、苦労していたのだなあ~って思い知らされたものである。
お金にまつわる植物は一両から万両まで、きっちりそろっているのが面白。
これらの濃緑のはと真っ赤な実とのコントラストは実に美しい。
お金にまつわるところから、いずれも正月の縁起物として昔から人々に親しまれてきた。
人間と言う生き物、お金と言う代物に実に興味深い執着がある様である。
因みにお金に関係のある縁起物の植物を記してみると・・・
アリドオシというのがある、これは一両、アリドオシと言う名前は何時も常にお金がある、を意味してつけられたものであろう、これはアカネ科。
十両と言うのもある、これはヤブコウジ、藪柑子の別名、サクラソウヤブコウジ属。
百両と言うのもあり、これはカラタチバナの別名で、サクラソウヤブコウジ属、千両はもはや有名な植物で知らぬものはあるまいが、これはセンリョウ科。
万両はマンリョウは、サクラソウヤブコウジ属の常緑小低木。
その当時、鉢物でそのお金の係わる植物を見つけると買ってきてはその赤い実を撮っていたことを思い出している。
 
もうこの時期になると、一里塚が目の前に見えてくる。
 
その一里塚をまた一つ超えることになるのだが、果たして超えれるかどうかも分からない。
若い人々にとっては超えたところには、楽しみのある処だろうが、吾にとっては楽しくもあり楽しくも無し。
一里塚が有ろうと無かろうと、吾には何ら関係ないのだが、周りの生き物たちが特別な扱いをする。
昔のように、杜甫が言うように人生七十古来稀なりと長寿を祝い、敬う時代であったならいざ知らず、人生七十古来稀なりは長寿を祝う言葉なのだろうか。
我が国では人生五十年が相場であった時代、七十年は長寿であり祝うべきものとしたのだろう。
だが杜甫の古来稀なりは祝う言葉として読まれたと思っている人が多いが、果たしてそうなのだろうか。
よくよく、杜甫の曲江二首を読むと七十年の命は祝うべきものとは思っていない。
むしろ70歳までものうのうと生きている者は、世の腐敗をも憤らず、恥知らずで厚顔無恥に厚かましく、のうのうと過ごしてきたに違いないという揶揄が含まれている、そんな気がしてならない。
杜甫の頭の中には、酒を飲み食らって、70歳まで生きたものはいないのだという諦念があったのではなかろうか。
杜甫の人生を考えるととても長寿を祝うなどと言う考えは生まれてこない。
古い時代の我が国の人々は長寿に限りない憧れを持っていた。
現代の様に、長寿な生き物が世に溢れかえると、のうのうと七十、八十までも生きているということは祝うどころか、老害である考えるのが世の趨勢になってきた。
杜甫が言うように酒を浴びるほど飲んで、七十前には旅立ってほしいというのが、今の日本の趨勢なのであろう。
それ故に、年寄りの尻の毛まで抜いてしまおうと政治屋や官僚共が考えるのは政治屋や官僚程度の頭では至極当然の事なのだろう。
 
 
 
 
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