徒然の書

思い付くままを徒然に

翻訳の巧拙

 
最近外国の翻訳物やドラマの字幕に現れる翻訳を見てもう少し何とかならないのかと思うことがある。
専門的な文章が入った場合、専門知識のない翻訳者が翻訳したものなどは論外。見るも哀れな訳文になる。
自分の書くものは論文調のものになることが多い所為か、女性の翻訳者のものを見ると、どうにも切れがなく、助長な感じが拭い去れない様な気がする。
文章の末尾が例えば
~でありました。
~でございました。
~であったのであります。
丁寧と言えば丁寧な日本語ではあるのだが、・・・・・
何かぎこちなさを感じるのだが・・・・・
 
このぎこちなさは、何も外国の翻訳物に限ったことではない。
我が国の古典の現代語訳にも当てはまる。
多くの人に絶賛されている源氏物語の、現代語訳の何かぎくしゃくとした、ぎこちなさは読んでいてもイライラが募ってくる。
源氏物語など原本ものを読むに限る。
それから比べると、同じ古典でも、徒然草枕草子などは原文でも現代語訳でも随分と読みやすい。
 
外国の翻訳物の場合、ただ一つの単語の訳し方もその場に似合わない訳語を使う人もいる、というより何と多いことか・・・・・
ギリシャ神話のある場面で・・・・
神々はその靴を履いて大空や水の上を風の如く、思想の如く早く歩きました。
と訳した文があった。
思想の如く速く歩くとはどの様な歩き方をいうのだろう。
これはもう日本語じゃない。
小学生が読んでも意味が解るまい。
誤植だというのだろうか、ワープロなら変換違い・・・・・何とも馬鹿な訳をしたものだと思う。
この思想と訳した単語はどんな語だったのだろうか・・・・・
無性に原文を見たくなった・・・・・
英語の時間だったら、散々に油を絞られただろう。
プロの翻訳家である以上こんな意味のない翻訳は許されない。
出版の際の校正の時でも当然発見されるべきものと思うのだが・・・・・
単語一つ訳すにも文章に馴染んだ訳を付けなければ、翻訳したことにはならない。
これは高校の時、いやと言うほど叩き込まれた言葉である。
サマセットモームを訳していた時、特に切実に感じたものである。
 
それと、訳した文章の矛盾に気が付かないでいる訳者もいる。
これもギリシャ神話の一場面の翻訳文であるが・・・・・・
ヘルメスはゼウスとマイアの間の息子・・・・・・手際や器用を要する仕事をすべてつかさどっていたのであります。
ヘルメスはゼウスの使者として・・・・・、翼のある靴を履き、手には二頭の蛇の巻き付いたカドゥケウス(神杖)と呼ばれる杖を持っていました。
ヘルメスは竪琴の発明者だと言われています。
彼はある日一匹の亀を見つけました。
その甲を取って両端に穴をあけ、その穴に亜麻糸を通して楽器をこしらえました。
糸の数は九人のムーサの女神にかたどって、九筋になっていました。
ヘルメスはその竪琴をアポロンにあたえて、カドゥケウスと交換しました。
 
日本語として通用すると思いますか・・・・・
交換と言う言葉を思い起こしてみてください。
竪琴も神杖もヘルメスのもの・・・・・
どうして交換などと言う言葉が出るのか・・・・・
訳者は奇異に感じなかったのであろうか・・・・・
この訳を読んだら、小学低学年の児童でもおかしいと感じるだろう。
翻訳本の中にはこの様な不具合なものが時として、平然と現れることがある。
日本人が普通に使う交換とはどのような動作か・・・・・・
この訳者は一応小説家と呼ばれている人種。
己の訳したものが、訳の上手い下手は別にして、疑問を感ずることはないか、読み返し点検することはないのだろうか・・・・・
原文が他国語に翻訳され、それを再度日本語に翻訳されることもあるだろう。
日本訳の基になる文章に誤訳があれば当然日本語に翻訳するときに疑義を感じるのが当たり前・・・・・
先の様な文書を疑問もなく翻訳でございと発表するのはどんな神経なのであろう。
原文がその様不可解なものなら、註を付けるべきだろう。
ほんの数ページ読んだだけでこれだから、この後どんなのが出てくるのか、もうほとんど読む意欲が失せてしまった。
違った訳者ののものを探してみようとと思う・・・・・・
 
小説でも、先のページに書いたものと、その後のページで書いたものとで、つじつまの合わないのはよく見かける。
この頃の売れっ子の小説家は、シリーズものをいくつも手掛けている様だから、錯覚起こすこともある様である。
そんな場面に出くわすと、あゝ~メモを取り忘れたな、と思いながら勝手に読み替えて先へ進めるが・・・・
小説などでなはなく、底本のある翻訳のもでは、そうはいかない、重大なミスである。
 
アメリカのドラマを見ているとしばしば現れるのだが、日本の110番に当たるのはアメリカでは911番である。
それを字幕で110番と表示することがある。
翻訳者が気を利かせすぎて、110番として、意訳だなどと思ったら大間違いである。
時として、アメリカの省庁にない環境庁などと同じ原本の字幕に流れることもあるのは意訳の範疇を超えたものであろう。
 
翻訳って単に他国語を日本語に変換するだけではない。
底本の語調を保ちながら、その意図を損なわない様に訳す必要があるように思う。
それでなければ、ちょっと外国語のできる、高校生でも翻訳業ぐらいはできるだろう。
その国のあらゆる文化に精通していなければ、他国語の文章の本意を翻訳することは難しい。
専門分野の翻訳などその道の専門家以外では殆ど用を為さないであろう。
翻訳される文章がその国の人々に与える文章としての感動を、日本語に変換した後でも同じように読むものに感動を与えるものでなければならない。
翻訳された文章は何故かぎこちなさを感じるものが多いのはどうしてだろう。
原本の持つ感動が翻訳したものに表わされていないからだろう。
先に挙げたような文章の終末での表現も些細な事だが、その一つかもしれない。
 
もうこの翻訳本はお蔵入りとしよう。
乏しい記憶容量になってしまった脳みそに、間違っているかもしれない文章と内容を記憶させるだけの負担をかけたくない。
探せばギリシャ神話の同じ原本の翻訳本は幾らも出版されているだろう。
 
と思い同じ原作の違った訳者の本を探してきた、比べてみると・・・・・・
ここまでだけを比較しても、随分と違ったところがあるものだと、ほとほと感心したものだ・・・・・・
訳者の文学的才能や語学力によっても翻訳の巧拙は如実に表れるのがはっきりとした。
 
このへパイトスと言う男、随分器用なところがあるらしく、建築技師でもあるらしい。
オリンポスの神々のために真鍮で家を建ててやったりもしたらしい。
処がもう一つの、訳本では青銅で家を建てたと訳されている。
原文を読んだわけではないのでどちらが正しいかわからない。
だが明らかに、どちらかが誤訳・・・・・・
真鍮はBROSS 、青銅は誰もが知っているBROUNZE
翻訳って、これほどいい加減なものらしい。
この青銅と真鍮の違いは馬の蹄鉄の処でも出てくるから、どちらかが錯覚しているのは間違いない。
翻訳本を読んで違和感を感じた時は原本を読むに限る。
とは言っても、洋書屋へ行ってもすぐには手に入るまいが・・・・・
注文して数か月待って、高価な代価を払ってなど、無駄な事か・・・・
昔はよく丸善へ行ったものだが、今はもう、その気力も失せてしまっている。
 
因みに、先に書きだした、思想の如く早く歩きました。
もう一つの訳本では、・・・・また時にはめぐる思いにも似た速さで、彼方此方へ移動することが出来たのです。
随分と違うが、めぐる思いにも似た速さ、っていうのもどうにも意味が良く解らない・・・・・・・
判らないまま黙って読み過ごすのがほとんどであろう。
 
もう一つの交換の場面はアポロンにこの竪琴を与え、そのかわりにケーリュケイオンカドゥケウスの事)の杖を貰い受けました。
と訳されているが、この神杖は初めからヘルメスが持っていたもの・・・
とすれば、原作者が間違っていたということになる。
これなど、同じ原本を違った訳者のものと比べないと、翻訳の誤りと受け取ってしまう。
原作を書いた男、交換と言うものの概念が分かっていないらしい。
 
杖の名前一つにしても全く違って訳されている。
因みに、この二冊は原作は同じで訳者が違うだけ・・・・・・
 
時々見る外国の語録と称する物の翻訳も、どうもしっくりこないな~って、思っていると、同じ意味の語録が違った言葉で見ることもある。
映画やドラマの字幕や吹き替えなども、そのようなことを注意してると、本当かなって思うことはしばしばあることに気が付く。
 
 
 
 
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