徒然の書

思い付くままを徒然に

童話ってなんだろう・・・・

 
世に有名な童話集っていくつかあるが、その中で子供が読んでためになる、あるいは読んで聞かせて、ためになる話ばかりではない様な気がする。
こんな話を子供の心に植え付けては、後々あまりいい心の人間にはならないなあ~って思う話も随分と見受けられる。
尤も、アンドール・ラングの世界童話全集などと言う高尚なものを読んだわけだはないく、精々アンデルセン童話集とかグリム童話集よくてイソップ物語ぐらいの、ほんの僅かなものでしかないのは、先に言っておいた方がいいだろう。
 
では童話って何なのだろうと・・・・、グリム童話集 金田鬼一訳 岩波書店の序から少々探ってみようと思う。
 
ではその序から少しづつ抜粋してみると・・・・
グリム童話集は児童及び家庭おとぎ話で、ドイツの民間で、口から耳へと生きている古い話を時がたつにしたがって変形していく前に、古老などの口から聞いたままを、内容、形式を忠実に書き下したものだという。
 
グリム童話は怖いという話をよく聞くが、童話即ち子供向けばかりの話ではない家庭用の話でもあるので、ドイツにも怖い話として伝わっているものもあるのだろう。
我が国のおとぎ話の中には、能々味わってみると実に怖い話もある。
 
元々、おとぎ話と言うのは御伽の衆の話として、戦国時代の大名などお伽の時に語られたものなのだろう・・・・・
当然大人向けの話であった。
お伽衆の大名の殿様や大王に聞かせる話は千夜一夜物語、すなわちアラビアンナイトなどもその形式を取っており、これは大人専用のおとぎ話である。
千夜一夜物語はあまり性質のよくない大王の夜伽の伽を命じられたシャーラザットとドウニャザットの姉妹が、千と一夜にわたって話し続けた物語である。
とてもエロチックな話の連続、シャーラザットなど千と一夜の話の間に三人の子を産むというとても過酷な面もある。
まさに暴君という大王様である。
この千夜一夜物語は大人の話、童話とは全く異質な話なので、またの機会と言うことにしよう。
 
山東京伝の異制庭訓にある祖父祖母之物語・・・むかしむかしじじとばばありけり・・・・の決まり文句で始まる・・・・・童の昔話と称え、約めて童話としるして、ドウワまたはムカシバナシと読ませていたという。
山東京伝は江戸後期の浮世絵師と言うのか、黄表紙作家と言うのか特異な存在の人物である。
出版規制によく引っかかり、手鎖の刑に処せられたり、面白い人物であったようである。
童話と言う成語を使ったのは恐らく彼が最初だろうと書かれている。
グリム童話集だけに限って言えば、児童用おとぎ話と家庭用おとぎ話の合体したもので、京伝の昔話ではあるが、馬琴の童物語ではないという。
黄表紙は江戸の庶民の読み物としてとても人気があった。
京伝はその売れっ子作家であったようである。
 
いわゆる童話はいまだ純白な心の持ち主であるだけに、大人の汚れた世界の話は読ませたくないのが、親としてはその内容に十分気を使う必要があるだろう。
アンデルセンの童話などによくみられるのであるか、金持ちは皆に敬われ、金のない貧困なものは蔑まれ、いじめられるとか・・・・・
金持ちはいい嫁さんをもらえるとかの、風潮を子供心に植え付けるのは、現代社会そのままの様で、子供にはいい影響を与えない童話と言える。
いじめられて死んでしまう様な物語は童話としては最悪なものであろう。
 
グリム自身の言葉を借りれば「将来繁栄の可能性を有するものはすべて自然(生まれたまま)なる者であり「我々が教育読本のために求めるものは、背後に何ら正しからぬものを匿くしておらぬ素直な物語の持つ真の内にある清浄無垢である」鳥が空に棲む如く、魚が…水の中に呼吸するがごとく、花が大地に根を下ろしているがごとく、人間の児童は真理の国に生活する。
しかるに、意識せずして真理の国に住むこの児童がおのずからにして大自然の教え子あることを思わず、人間一切の教訓は大自然そのものから来ることを忘れて、成人が意識的ならびに無意識的の越権から生ずる悪魔的ともいうべき行為によって、刻々に児童の純真な心を損ないつつあるのは、真に情けない伝承と言わざるを得ない。
と訳者金田鬼一は記している。
 
まさにその通り、様々な童話から受けることによって、純真無垢の心を捻じ曲げてはなるまい。
 
 
 
 
イメージ 1
 
 
 

(本ブログの全ての写真は著作権を留保。無断使用・転用・転載・複製を禁ず。)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー