徒然の書

思い付くままを徒然に

智に働けば角が立つ・・・とかく人の世は住みにくい。

 
若い頃に永平寺の宿坊に泊まったことがあります。
旅行者と言えども、その規則の厳しさに驚いたものですが、その時が私の座禅との出会いで、自己流の座禅を続けています。
早朝の三時にたたき起こされ、座禅の組み方を教えられ、朝の勤行に付き合わされて、それから朝食です。
その時はえらいところに、宿泊したものだと思ったものですが、旅行から帰って、習った座禅の組み方をなぞっていたら、如何してか随分と興味が湧いてきたものです。
何度か色々と座禅会にも出たことはありますが、座禅と言うものが私の性に合っていたのでしょう。
何も仏教としての座禅と言うのでもなく、悟りを得ようというのでもなく、ただ座禅を組む時の安らぎを得たいがために、続いているのでしょう。
そんな、関係もあり、道元正法眼蔵に興味を持ったのが病みつきとなり、よく読んでいることが多い様な気がします。
全巻を読むなどとても叶うことはありませんが、最初の三巻だけですが、道元のものの考え方の特異な処に惹かれています。
手軽に読める、入門書みたいなものも随分出ているんですが、そのような解説書でも十分道元の考え方に触れることが出来ると思います。
最初に手にしたのは、座禅を始めてから随分経った後からだけれど、とても心に残ることの多い解説書だった。
 
その中からとても心に残るところがあって、何時も繰り返し読むんですが・・・・
その中の一つを、此処に抜粋して、記してみましょう。
 
臨済録は唐代の臨済義玄の著書であるが、その中に・・・・・
随所作主、立処皆真・・・と言う言葉があるという。
随処に主となれば、立つ処皆真なりと読む。
人間家庭でも、会社でも、友人の間でもなかなかしっくりといかないことがある。
人に合わせれば他人が付け上がるし、自分を通せばぎくしゃくする。
まさに、漱石の世界・・・・・草枕を読んだことのある人はすぐに思いつくでしょう。
智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。
小さなころから、こんな思いをしてきた人は多かろう。
昔の子弟は早くから論語などを素読させられるから、案外言葉としては知っているかもしれないが、なかなかそれを実行するのは難しい。
 
著者が子供の頃、家庭教師が論語の一説を教えてくれたという。
それが、和して同せずの一句だったという。
自分が困った時に教わった言葉と言うものは、後々になっても心の中に残るものらしい。
その論語の中に・・・君子は和して同ぜず、小人は同して和せずという言葉がある。
これは論語の中の子路の一説に書かれた
 
子曰、君子和而不同、小人同而不和
 
と言う言葉であるが・・・・・・・
君子は人と調和はするが、雷同はしない、小人は雷同はするが、調和はしないという意味であろう。
この孔子の言葉は老子の融通無碍な心境と言うか、考え方と言うか、とは正反対の対極にある様な気がする。
この孔子の言葉、筋を通して自説を曲げない、そんな道徳臭すら感じるのであるが、漱石あたりに言わせると窮屈だということになるのだろう。
 
ではどうすればいいのだろうか・・・・・
それは臨済玄義の言う随所に主となるということだという。
随所に主となるということは人間はどんなところにいても、天然自然の表れである。
他者を自分と対立する相手と見ることなく、同じ自然界の一つと見るということらしい。
立処とは自ら寄って立っている立場、立脚点がどんなに悪く見えようともその中で悠々自適、自由に生き、真実に生きる、ということらしい。
人間関係や境遇に恵まれないとき、随所に主となる、という言葉を思い浮かべてみるといい。
矢張り、道元の解説書だけに、仏教臭はぬぐえないが、随分と含蓄のある言葉ではある。
仏教とは関係なく、この言葉はとてもいい心の糧となる様な気がする。
随処に主となれば、立つ処皆真なり、と言う言葉が随分と好きである。
 
道元の読み方   栗田勇著   祥伝社刊より抜粋
 
 
 
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