徒然の書

思い付くままを徒然に

多摩御陵


黄色く色づいた甲州街道の銀杏並木が延々と続いている光景は実に美しい。
その中に多摩御陵の文字が見えて、何故かちょっと寄ってみたくなった。
以前一度、来たことはあるのだが、何時の頃だったかははっきりとは思いだせない。
恐らく、学生の頃だったように思う。
少なくとも半世紀は経っていよう。
甲州街道を右折して、御陵へも道をたどると、南浅川に掛かる橋に出合った。
この橋が御陵への道と言うのであろう、随分と見栄えよくデザインされているのに感心したものだ。
川の土手を出入りしたいる車が多い。
帰りに寄ってみようと想いながら・・・・・
 

参道入り口に、駐車場も整備されて、他の国営の施設とは一味違った様相を見せている。
鬱蒼ととした森の中へ入って行くような気分になるが、道路が整備され、ちょっと普段では味わえない雰囲気を味わうことが出来る。
以前来たと時は、墳墓の数も少なかったが、今は四つに増えている。
 

これは大正陵で多摩御陵と呼ばれている。


イメージ 1
 
 


陵墓の前は塵一つ落ちていない程に整備されて、実際厳粛な気分になる。
御陵など画にしても仕方がないのだが、余りにも美しい雰囲気で、ついつい撮ってみたくなった。
この陵を、熱心に拝んでいる人がいた。
  
前回来たときはなかったが、武蔵野御陵と言うそうであるが、昭和天皇と皇后の陵墓である。
まだ精々四半世紀しかたっていない所為か新しさが目立ち、荘厳さは感じられない。
 

これは皇后陵、天皇陵は人が多く集まっていて撮るのをやめた。


イメージ 2
 


尤も墳墓と言うものは如何に立派なものを造ったたとて,死者にとっては何のことはない、生きてるものの自己満足に過ぎない。
尤も、此処の陵墓は国家の象徴の陵墓であるから荘厳であるこのに越したことはない。

高野山奥の院への道には歴史上の人物の巨大な墓が数限りなくたっている。
あれ等も死者を弔うというよりも生きてるものの都合だけによるものであろう。
明らかに宣伝のために作られたと思われるような、墓さえ見られたのは、見る者の斜視であろうか。
 
日本の古代の大王や豪族の陵は前方後円墳は良く知られている。
それより古いものは出雲などで発掘された四隅突出型方墳などと言うものもある様だが、現代の天皇の陵は上円下方墳と言うらしい。
 
前方後円墳の原型は吉備地方にあったらしいが、後に倭で作られ、全国に広がっって言った。
古い時代、大和政権が作られたころ、それぞれの氏族、豪族の首長によって構成される合議制の朝廷の神祇の主宰者として祭り上げられた大王が、天武によって天皇号を称するようになった。
大和の纏向遺跡が発掘されて、随分古代が解明された様だが、その中にある箸墓古墳宮内庁の頑なな発掘拒否によって、古代史の解明がとん挫している。
箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の陵墓と言われているが、それとてもはっきりとしない。
天皇が日本国の象徴であってみれば、率先して天皇陵の発掘を為し、古代の解明、研究、日本の歴史を解明する義務があるのではなかろうか。
宮内庁などと言うのは、昔流にいえば朝廷の単なる家来、朝臣であってみれば、国のために尽くすのが道理、日本史の解明を阻害するなどは以ての外である。
多可が国家の家来が、国の歴史の解明を、偏見によって阻害するなど、我が国の政治屋の弱腰でなければ見られないだろう。
徳川の時代の天皇陵はどの様な姿であったのかは調べたことはないのだが、明治の陵は京都伏見にあったのではなかったろうか。
以前京都へ旅行した時、近くを車で通過したような気がしている。
 
 
 
行くときに通った立派な橋の手前を右折して川べりにをって進むと小さいながら駐車場があった。
駐車場が整備されて公園になっているので河岸を歩いてみたが画になりそうなものは見当たらなかった。


イメージ 3
 




黄葉した樹木を入れて橋を撮ってみた。
 
 
イメージ 4
 
 
 
 


(本ブログの全ての写真は著作権を留保。無断使用・転用・転載・複製を禁ず。)


 







ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー