六地蔵
六道思想の発達に刺激されて日本で形成されたものであると言われている。
平安時代後期、民間にも仏教が広く浸透するにつれて、地蔵信仰は急速に普及していった。
浄土往生の功徳を積むすべのない民衆の間では、地獄を見るは必定という深刻な地獄観を持つ人々の間で、地獄に入って人々の苦しみを代わり受ける地蔵の信仰が普及したのは当然とも言えた。
五濁の汚れた世において救済活動を行うとされる菩薩であり、経典によっては八大菩薩の一つと言われている。
八大菩薩とは言っても経典によって異なる。
剃髪し、錫杖と宝珠を持って、自ら六道を巡る姿は庶民の親しみを込めた信仰の対象となっている。
赤い帽子を冠り、前垂れを掛けた姿で、田舎道の辻つじに立つ姿は、何故か見るものの心を和らげてくれる。
今ではもう見る事もないだろうが、随分昔には村々の入り口には六体の地蔵が並んでいる光景はごく普通であった。
平安時代などの貴族辺りには、功徳の集積が容易な彼らには死後の地獄の恐怖がさして切実でなく、地蔵への関心が薄いのに比べ、民間の信仰は庶民の地獄思想を現していたと言っていい。
今日の民間における地蔵信仰をみると、何々地蔵とよばれる名前は100以上にも及ぶと言われ、その信仰の内容はきわめて多岐にわたってい。
平安時代も後期になると、民間にも仏教が広く浸透するにつれて、地蔵に対する信仰は大いにひろがっていった。
地蔵信仰が普及するにつれて、民間の地蔵説話を集成した地蔵菩薩霊験記を編纂した僧が現れた。
残念ながらそれは後に散逸したが、その説話の多くは今昔物語集の中に再録されて、当時の民間地蔵信仰がどの様なものであったか、その特色を知ることが出来る。
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