徒然の書

思い付くままを徒然に

六地蔵


今では田舎道とは言ってももう見る事もなくなったのであろうが、もう随分昔彼方此方の石仏を撮り歩いた頃、村の入り口などに六地蔵や村の辻に佇む地蔵尊を見ることが出来た。
六道のそれぞれにあって衆生を救済するという六体の地蔵菩薩
六道思想の発達に刺激されて日本で形成されたものであると言われている。
平安時代後期、民間にも仏教が広く浸透するにつれて、地蔵信仰は急速に普及していった。
浄土往生の功徳を積むすべのない民衆の間では、地獄を見るは必定という深刻な地獄観を持つ人々の間で、地獄に入って人々の苦しみを代わり受ける地蔵の信仰が普及したのは当然とも言えた。
五濁の汚れた世において救済活動を行うとされる菩薩であり、経典によっては八大菩薩の一つと言われている。
八大菩薩とは言っても経典によって異なる。
金剛界胎蔵界曼荼羅での八大菩薩は・・・・
観自在、弥勒、虚空蔵、普賢、金剛手、文殊、除蓋障、地蔵、でよく知られた菩薩である。
 
薬師経では,文殊・観世音,勢至,無尽意,宝檀華,薬王,薬上,弥勒


イメージ 1






地蔵菩薩本願経に依ると、彼は仏になることを延期して、菩薩にとどまり、衆生の罪苦の除去に携わることを本願とし、成仏のみに関心をもつ仏教への反動であろう。
わが名を唱える人を苦から救う、という誓願をたて、梵天、夜叉、閻魔などさまざまの姿をとって衆生を導くという。
一人は自ら悟ってから衆生を救おうと考え、もう一人はまず衆生を悟らせてから自らも悟ろうと考えた。
自ら悟ってから衆生を救うものは、一切智成就如来,後の一人は地蔵菩薩である。
 
剃髪し、錫杖と宝珠を持って、自ら六道を巡る姿は庶民の親しみを込めた信仰の対象となっている。
地蔵は釈迦入滅のとき、釈迦の依嘱を受けて、五十六億七千万年後に現れる、弥勒の出世まで六道即ち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の衆生を済度教化する菩薩とされたのである。
地蔵菩薩奈良時代にその経典が我が国に入って来たと言われているが、その信仰は平安時代末期から中世にかけて、民間の信仰として広まっていった。
赤い帽子を冠り、前垂れを掛けた姿で、田舎道の辻つじに立つ姿は、何故か見るものの心を和らげてくれる。
今ではもう見る事もないだろうが、随分昔には村々の入り口には六体の地蔵が並んでいる光景はごく普通であった。
平安時代などの貴族辺りには、功徳の集積が容易な彼らには死後の地獄の恐怖がさして切実でなく、地蔵への関心が薄いのに比べ、民間の信仰は庶民の地獄思想を現していたと言っていい。
今日の民間における地蔵信仰をみると、何々地蔵とよばれる名前は100以上にも及ぶと言われ、その信仰の内容はきわめて多岐にわたってい。




イメージ 2
 





平安時代も後期になると、民間にも仏教が広く浸透するにつれて、地蔵に対する信仰は大いにひろがっていった。
地蔵信仰が普及するにつれて、民間の地蔵説話を集成した地蔵菩薩霊験記を編纂した僧が現れた。
残念ながらそれは後に散逸したが、その説話の多くは今昔物語集の中に再録されて、当時の民間地蔵信仰がどの様なものであったか、その特色を知ることが出来る。
 
キリスト教辺りの一神教に比べると、数多くの仏があり、その一人一人を見ていくと、多神教と言うのは実に含蓄があって良い。
 
 
 
 
イメージ 3
 
 

(本ブログの全ての写真は著作権を留保。無断使用・転用・転載・複製を禁ず。)







ーーーーーーーーーーーーーーーーー