徒然の書

思い付くままを徒然に

ドラマを見ながら・・・・


ブリッジと題する外国のドラマ。
アメリカとメキシコの間に掛かる橋。
スタートの画面はブリッジを監視する監視所のモニター。
突然モニターが故障なのか外部の操作による不調なのか、消えてしまう。
橋のちょうど真ん中に国境線が印されている。
その国境線上に横たわる人間。
死体遺棄か殺人か・・・・
アメリカ側から女の警官、メキシコ側から男のごつい警官が現れる。
アメリカの女警官は態度が横柄で、刺々しい風貌の見るからに厭な奴って感じ。
そこへ通りかかるのが心臓疾患の患者を乗せた救急車。
女警官がけんもほろろに通行を拒否する。
この権力主義の女、患者が死んだらどうするつもりだろう。
そんなことなど考えてみいないだろう。
メキシコの男の警官は見た目はごついが人情はある様で、スンナリ通してやる。
死体の横の車線を救急車が通過する。
それを見た女警官がわめき散らしながら、救急車を追いかけるが追いつくはずもなく、阿呆な奴。
誰が通したのかと喚き散らすが、何とも権力をかさにきた厭な面相。
映画やドラマを見ると、役者を撰ぶに実に登場人物にマッチした役者を撰ぶものだといつも感心する。
滅多にミスマッチの役者はいない。
このドラマの女警官も見事にマッチしている。
我が国の事件現場だったら、どの様に扱っただろうかと考えてみたが、その場に直面した者によって扱いが変わってくるのだろう。
こんなところに、人それぞれの人間性が現れるのだろう。
あの面相のあの性格の女なら、億単位の持参金を付けられてもお断りというほどいやな面相と性格。
このドラマ、別に感情移入した訳ではないのだが、あの女警官の面を見るだけで、嫌悪を感じて、ドラマは放擲・・・・・
融通の利かない権力主義の刺々しさを漂わせる女警官はわが国のミニパトで、駐車違反で口論しているのを見かけたことは一度ならずある。
男に肩を並べて職務を遂行するには権力を振りかざしても高圧的にならざるを得ないのかも知れない。
なまじ融通を利かせると、損をするのは自分だと思っているのか、権力を振るってみたいのかそれは判らない。
ドラマに戻って、あのメキシコ側の男のごつい警官が通行を許可しなくて患者が死んだら、身内は如何したろうと思う。
自分ならあらゆる手段を講じて復讐するだろうと思った。
いかなる理由があろうとも、人を死に至らしめたものは、己の命でしか償えないのだという事。
同害報復と言うことではなく、命っていうのはそれほど大切なもので、他人によって失われた命は奪ったものの命以外では償えないのである。
 
ドラマを見たり小説を読むたびに、常々思う事は様々な国と比較しても、日本の刑罰は何とも軽い。
例えばドラマや小説によく出てくる殺人の罪。
我が国の殺人罪は死刑や無期はあるものの、最低は五年の有期懲役。
しかも場合によっては仮釈放がある。
仮釈放は有期懲役は刑期の三分の一、無期の場合でも十年を経過すると仮に釈放されることがある。
殺された者の身内にすれば有期懲役の最長刑を科したとしてもなかなか納得できないであろう。
 
殺人などの重大犯罪に、時効はなくなったものの、今までは人を殺しても十五年逃げ切れば自由の身。
アメリカのドラマにコールドケースと言うのがある。
ここに描かれるものに、四十年、五十年たった犯罪で逮捕されるドラマが描かれている。
重大犯罪で、時効などという考え方自体が間違っているのだろう。
 
先進諸国の刑罰を一つ一つ比べて比較したことはないが、アメリカあたりの刑罰はわが国よりはるかに厳しい。
仮釈放なしの無期懲役などと言う刑もあるらしい。
いくつもの犯罪を犯した場合五十年、六十年などと言うのはざらにあるらしい。
刑罰に犯罪の抑止力があるものとすれば、刑の軽重はとても大切な意味がある、よくよく考えるべきであろう。
 
ただ、受刑者などはわが国の受刑者と比べると随分と自由がある様で、刑務所内の生活は緩やかな様である。
ここにもある程度の、人権と言うものが考慮されているのだろう。
映画やドラマで見る限り、我が国では刑務所あたりでさえも権力主義が貫かれているのか、受刑者には随分と厳しく描かれている。
厳しい規律の中で生活を強いられるようの描写が多い。
要するに権力主義というのは弱い者いじめである。
名目と膏薬は何処にでもくっ付くのである。
容疑者とされたが最後、アメリカなどと比べると、人権はほとんど無視される。
 
犯罪を犯したとみなされた容疑者の取り調べについても、有形的な拷問は禁止されたとは言っても、小説や映画などを見ると精神的な拷問は依然として行われているのだろう。
誘導尋問などは容疑者は勿論、証人などにも随分と行われ散る場面が描かれている。
アメリカなど弁護士の立会いなくして取り調べる事は難しい様だが、我が国では弁護士の接見は取り調べの目鼻がつかない限り、殆ど許されていない様な気がする。
要するに権力主義が優先され、人権は後退させられていると言っていい。
近頃推理小説を読むより、警察を主題にした小説を読む方が遥かに多くなっているのだが、その時思うのは捜査の違法性が随分と平気で描かれているということである。
ドラマや小説で描かれる場面に、令状もなく容疑者とされるものの家に踏み込むことが平然と行われている。
容疑者の家とは言っても家宅捜索するには、厳重な条件を付した令状が必要であるのは法上も当然なのであるが、令状なく屋内に立ち入って、そこで物証を得た場合、アメリカなどでは証拠とは認められない。
我が国では当然有力証拠として用いる様な描き方をする場面が描かれている。
それともう一つアメリカと比べると、令状が安易に発行され過ぎるのではなかろうかということである。
家宅捜索令状一つにしてもアメリカなどの場合捜索場所などに厳しい制限が付される場面があり、それ以外の場所で発見された証拠は採用されない違法な証拠としているらしい、至極当然のことである。
色んなドラマを見てあるいは小説に描かれていることから、いつも感じるのだが、虎の皮を着たら人間、随分と高圧的になるのだな~ってこと。
貧相な狐が虎の皮をかぶって高圧する図って我が国に似合ってるのかも・・・・
子供たちの虐めが随分と世間を騒がせたことがあるが、何も子供たちばかりではない。
子供たちの虐めは所詮大人の虐めを見習っているのだろう。
権力主義も程々に・・・・・戦前のオイッ、コラ、!はなくなったとはいえ、現在でも、権力主義は色んな所で顔を出している、というより、日常の生活の中であらゆることに権力が顔を出している。
余りにも多いため当たり前の様に感じているかもしれないが、様々な分野の己らの権力を保留しておきたいと考えるのが、島国根性丸出しの権力主義なのである。
もう一度考え直す時期なのではなかろうか。
人間の尊厳・・・・人権ってとても、とても大切なものである。
人間には与えられた人権ではなく、生得的な人権が備わっているということを権力者は銘記すべきである。
ドラマを見ながら、小説を読みながら、色んなことが頭を過ぎる。




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