徒然の書

思い付くままを徒然に

大道廃れて仁義あり~

大道廃れて仁義~
 ~国家昏乱、有貞臣
 
賢帝といわれた隋の文帝が初めて導入したは、科挙と言われる官僚へ登用するための手続。
古い時代は貴族たちが世襲で高位を独占する時代が続いた。
家柄ではなく公平な試験によって、個人の才能ある者をを官吏に登用する制度は、当時は非常に斬新な考えに基づいている。
しかし隋から唐の時代までは、その効力に見るべきものはなかった。
北宋の時代になると、科挙によって登場した官僚たちが新しい支配階級を形成し、政治をはじめ、社会的にも、文化的にも大きな変化をもたらした。
科挙がその最大の要因だとされている。
科挙によって官僚となったものは地位と名声、更には最大の力を発揮する権力を得て、大きな富を築いた。
弊害は、時代を経るにつれて大きくなっていった。
科挙の試験のみうつつを抜かした世間知らずのものが、科挙に及第すると、その官僚たちは、現実の社会問題を軽視し、政治や経済の実務や民草の生活には無能、無関心であった。
この科挙も中国の長い歴史の中で果たした役割は大きなものであったが、清朝末期には西洋文化を取り入れるためには廃止せざるを得ない様になって、科挙の制度は中国から姿を消し去った。
 ーWikipedia参考ー
扨、戦後猿まねとブリキの国として、諸外国から蔑まれた我が国では、儒教が依然として根底に流れ、中国では遥か昔に姿を消した科挙の制度が形を変えて姿を表している。
裁判官をはじめ、高級官僚は国立の一流大学でなければ登用されない、学歴偏重の社会制度が我が国の根底に流れている。
子供のころから国立最高学府を目指して、社会の在り様や、出来事、人とのつながりを俗事として放棄し世間と隔絶した生活をなし、学校の教科は従とし、受験のための塾通いで、受験勉強にうつつをぬかし、偏狭な人間形成をした世間知らずとして成長した。
そんな連中が様々な試験を得て任官し、現実社会を動かす世になっている。
その様な者たちによって占められた裁判官や高級官僚が行う裁判や行政の不手際のしわ寄せはすべて、国の民草の肩に掛かってくる。
年金にしても、介護保険にしても然り。
マヌ抜けた予測を基に作られた制度は、世間、世の中と言う者を知らない官僚共によってつくられ、何度も何度も手直しをしなければ運用できない程に杜撰な制度が、今我が国にまかり通っている。
その制度が存続する限り修正され続け、その負担は総べて民草に掛かってくる。
 
何かの雑誌で、介護保険の負担額の増額と介護保険料の増額の記事を読んだ。
介護制度にしても、本来我が国の順風美俗は孝は親を敬い先祖を敬うのが儒教の教えに限らず、罷り通ってきた。
戦後核家族とか言って、家族が離れ離れに暮らすことは家制度の崩壊もあるが、政治の貧困も手伝って家族のきずなが希薄になっている。
とは言っても、生み育んでくれた親に対する孝を放棄してもいいということにはならない。
年老いた親を大切にするのは人間として見失ってはならない人の道である。
とは言っても、忙しすぎる世の中で、親の面倒を見るのはなかなか難しいのも事実である。
その面倒な介護を己が出来ないところを他人に頼って面倒を見てもらうというのが、介護制度の趣旨であるのも頷ける。
ところが政治屋や官僚共は何をとち狂ったか、老人の介護は介護される老人同士で行えとばかりに、高額な介護保険料を老人のわずかな年金収入から巻き上げている。
介護するのは、介護をしなければならないのは、老人の子すなわち若年層の筈。
だとすれば己に代って介護を依頼する若年層から介護保険料を徴収するのが至極当然の論理。
そうゆうと、若い人からも取ってるよとは言うが、老人の保険料とは雲泥の差がある。
しかも徴収する年齢は随分と高い。
世間知らずの官僚や無能な政治屋共の考えそうなことではあるが、根本の考え方が全く違う。
介護保険料を一挙に二割の増額、依頼人の収入によっては、介護負担額を二割に増額、おまけに年金額は物価下落の名目で、減額するなど、姥捨ての国ニッポンを象徴するに、面目躍如の措置が取られた。
姥捨ての山へ行くのが嫌なら、三途の川へどうぞ、というのであろうが、今の医学延命技術だけは格段に進歩している。
寝たきりのまま一年でも二年でも生命を保たせることが出来る。
貧弱な心しか持ち合わせない、我が国の政治屋や官僚共に老人天国とは言わないまでも、今まで日本を支えてきた、老人を大切にする気持ちが少しはあってもよかろう。
敬老の日などとはおこがましいほどである。
敬老の日の招待状に昼食会、会費何百円などと書かれているという。
何ともみみっちい自治体であろうと思う。
 
年金問題にしても見通しの甘さ、考え方の間抜けさが齎した間抜けな制度でその尻拭いは何時も民草に押し付けられる。
こんな官僚や政治屋の失態を追求する制度を作らない限り、永久に同じことが繰り返されていく。
間抜けな官僚共が創り出す制度は、どこかが抜けており、すぐに破綻をきたしてしまう。
己らが作った間抜けな制度を運用しながら、官僚など何の痛痒も感じていなかろう。
 
雨後の竹の子のように作り出される、老人介護業者。
車で走っていても、介護業者の大きな看板が五件や六件すぐに目に飛び込んでくる。
その会社の維持経費から事業の利益まで、すべて介護保険料で賄うのだから、保険料の増額は至極当然な事であろう。
実際介護に携わっている人々の収入など多寡が知れていよう。
実際事業などと言うものは、うまい汁がすえないところには群がるはずもなかろう。
 
それでも、老人から介護保険料を徴収することは間違っている。
育んでくれた親、老人を介護しなければならないのは、それらの子の義務、若年層である。
とすれば、保険料徴収の主役は老人ではないということである。
政治屋や官僚共の、とち狂うのも大概にする必要があろう。
 
六十歳支給の年金は今は七十歳でもダメ。
ここ十年で支給額はどれほど減額された。
税金はここ十年でどれほど増額された。
介護保険保険料がどれ程増額された。
世間知らずの官僚共が試算した案をうのみにする政治屋
何とも肌寒い国である。
国の借金はどれほど増えた。
 
徳川の時代より遥かに暮らし難い我が国ではある、そんな気がする。
江戸の頃の民草が現代へタイムスリップしたら、暮らし難さに驚くであろう。
この国の乱れは、真に有能な忠臣がいない所為でもある。
 
大道廃れて仁義あり
老子曰く、国がひどく乱れている時、忠義な臣下と言う者があらわれた。
とは言うが。
 
大道廃、有仁義、智慧出、有大偽、六親不和、有孝慈、国家昏乱、有貞臣。
 
国家がひどく乱れているいま、我が国に真に国を思い、民草を思う忠臣は何時現れる。
 
我が国の古代から現代までの為政者の行いを見ていると、天皇、公卿の時代から武家の時代、更には明治維新以後の今の今まで、為政者の失政の後始末は総べて民草に押し付け、負わせてきた。
現代でも街中で見るポスターに成長はみんなが主役、などと言う呆けたものを見かけるが、成長を阻害したのは政治屋と官僚共。
民草を虐げていながら、成長の主役になれなどは虫のいいにもほどがあろう。
 
 
 
 
 
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