徒然の書

思い付くままを徒然に

忠臣蔵ってなに

元禄文化が爛熟したあの犬公方綱吉の頃に起こったのが我が国では、だれ知らぬ者のない赤穂の浅野内匠頭の殿中刃傷と吉良邸討ち入り・・・・
江戸の町が引っ繰り返るり返るような喧噪であったろう。
武士道の根幹は忠義だと言われるが、忠義って何なんだって、とても重要な事も問われることなのだが、忠義の本体も年と共に時代とともに移り変わってゆく。
浅野の家中の武士身分の者の数は数百名に及んだろう。
討ち入ったものが忠義のためだとするなら、浅野家中には忠義の武士はほんの僅かと言うことになる。
戦のなくなった時代、先祖の功だけで無為徒食している武士などと言う者の本性が垣間見える様な気がする。
では忠義とは一体なんなのだということになるが、忠義とはまさしく武士道の目的となった徳目で、封建社会を特徴づける唯一のものだといってよい。
武士道の忠義は主君に真心から仕えるとの意味で、現代人にとっては理解しがたいものかもしれない。
とは言っても日本人にとっては漠然とではあっても、理解できるものであるのかも知れない。
その忠義の対象も時代が進むにしたがって、その内容は変容を遂げていく。
特に、時代が進むにしたがって、武士と言うのは御家があってこその武士であり、仕える家がなくなればもう武士とも言えなくなってしまう。
そうして無為徒食の安易な世界から放り出された者にとって、命を懸けた仇討などは思慮の対象外の事なのかもしれない。
 
果たして芝居や映画でいわれている様な原因で内匠頭が吉良に切り付けてのだろうか。
我々が知っている、殿中の刃傷や赤穂浪士の吉良帝討ち入りは、浄瑠璃、歌舞伎あるいは映画などで、面白おかしく作られた単なる創作劇でしかない。
記録と言われるものは、刃傷の際、背後から内匠頭を抱きとめたという梶川与惣兵衛日記しか見ることが出来ない。
 
その梶川日記にしたところで・・・
梶川は「浅野様・・・殿中ですぞッ!」と叫んだと書かれてはいるが・・・・
斬りかかって来たのが内匠頭であると与惣兵衛が知ったのは、少し後になってからであるので、与惣兵衛の発した言葉は実際は違っていた、というのが史実であるといわれており、日記自体の信憑瀬は薄いと言われている。
是とても何ら確証のあるものではなかろう。
 
評定所の記録も当然残るはずではあるが、目付衆の具申も綱吉によって無視されるに及んでは真相と言えるものは恐らく闇の中・・・・・
事件の起こった時代が悪かった。
暗愚の将軍綱吉、佞臣柳沢吉保、柳沢の顔色をうかがうばかりの老中・若年寄大目付・目付。
こんな状況では、正確な状況判断は不可能であったろう。
特に、勅使饗応をダメにした、内匠頭に対する綱吉の頭の中は怒りが渦巻いていたことだろう。
そんな中で正常な判断は不可能。
 
この事件が起こったのは元禄十四年三月十四日、勅使接待役を仰せつかった赤穂藩浅野内匠頭長矩が、高家筆頭吉良上野介義央に刃傷に及んだのが発端。
殿中抜刀はそれだけで死に値する、重大な罪で、内匠頭は即日切腹、浅野家断絶。
吉良にはお咎めなしで、喧嘩両成敗の原則に反すると、後に禍根を残すことになる。
この判断は、正常な判断力を失った、狂気の綱吉の内心が現れたものだろう。
 
江戸の当時様々なものとして演じられたが、浄瑠璃仮名手本忠臣蔵として演じられた。、
後の様ざまな忠臣蔵はこれを嚆矢濫觴とするものである。
さすがに当時のそのままを演ずると言うことははばかられたのであろう、室町幕府の時代のものとして演じられている。
 
江戸時代、江戸城内に於いていかなる理由があろうとも刃物を一寸抜いたら厳罰に処せられた、すなわち死罪である。
ただ例外は堀田正俊稲葉正休に惨殺された時、正休は同僚老中によって滅多刺しにされて殺されている。
だが、何故かこの時、同僚老中によって滅多切りにされたにもかかわらず、抜刀による咎を受けたものはない。
 
浅野内匠頭が単なる嫌がらせではたしてそう簡単に刃傷に及ぶものだろうかと考えるのである。
浅野内匠頭の乱心・・・・ではなかったろうかと思うのである。
乱心であったとしても内匠頭の切腹、そしてお家断絶は免れなかったであろう。
だが後々重大な差が出てくるように思う。
内匠頭の刃傷が乱心によるものと判断されていたら、果たして仇討などと言う行為に発展しはしなかったろうと思う。
 
他の史料によると気短な人だそうで、何か堪忍できないことがあったのか、突如、吉良上野介を見つけて切りかかった,と書かれたものがあるらしい。
芝居の様にいじめられた結果の刃傷ではなかったというのが本当らしい。
吉良が浅野をいじめていたというのはあくまで芝居での話で、そのような記録は残されてはいない。
 
浅野内匠頭は吉良上野に切りかかってはいるが、当時の装束はあの長袴。
長袴で帯びるのは、普通の脇差ではなかったはず・・・
もっと小型の小さ刀と呼ばれるものである。
いくら武芸と無関係と言われる殿様であっても、そのような小さな刀で切りつけるなどは思慮浅薄。
当然致命傷を与える目的なら腹部を狙うべき・・・・・
乱心ものにそこまで思慮することは無理であったかもしれない。
江戸の頃、腹を刺されると、ほとんど助からないと言われていた時代である。
 
それはさて置き、普通言われるのは勅使饗応役に抜擢された内匠頭が吉良上野に接待の指導を願っていたが賂を届けなかったために意地悪をされた。
そのいじわるに腹を据えかねて、強硬に及んだと言われているが果たして、そのような事が起こり得るものだろうか。
人間の貪欲な陰険さを考えると一概に否定されるべきものでもないが、現代人から考えると理解に苦しむ所業のようなきがする。
事実、浅野内匠頭は以前、確か天正年間にも、高家吉良上野介が指南役としてついていたが、勅使饗応を勤め上げて、経験しているはず。
教えを乞うことに対する意地悪は考えられない。
 
ただ、信用が置けるかどうかは定かでない他の記録によると、切りつける時、内匠頭が「この間の遺恨を覚えているか」と言って切りつけたとの記録があるのはどのように解したらよいのだろうか。
浅野内匠頭が乱心であったのか、いじめられた意趣遺恨であったのかは重大な相違を齎す。
大石をはじめとする数人は主君が乱心しており、そのためにこそこのような事態になったことを知っていたのではないか・・・・
吉良には何の咎もなければ、怨みを持つ道理もないという事を・・・・・
それでも討ち入らざるを得ない状況に於かれてしまった、何かがあった・・・・。
それは大石などになにか含むところがあったのかも知れないが、そんな記録は見出すことは出来ない。
 
殿中抜刀による切腹、お家断絶は当然のこととしても、当時の幕閣が、長矩の行為は乱心による所業で、吉良との間には何も蟠りも遺恨もなかったということを公表していれば、浅野の家臣たちは存在しない恨みを晴らすための討ち入りなどために命を投げ出すことはなかった。
内匠頭長矩自身も家臣に対して恨みを晴らすように、などと言う言葉を発してはいない。
従って、怨みを晴らすための義務を負うこともなかった。
そんな浅野の家臣の中に主君の乱心を知っていたり、知らされたりしたものの中には、乱心を知らされたがために、不幸な境遇に陥った者もいたであろう。
そんな気持ちを抱きながら吉良邸に打ち込んだ人々の不幸は大変なものであったろう。
何も知らず吉良に対する怨念に燃えたものの方が幸せであったかもしれない。
綱吉をはじめ幕閣は浅野は正気だと認めた。
主君が正気で吉良に打ちかかったとすれば、家臣にとって忠義を行う義務が生じる。
主君の行為が乱心からであったとすれば、家臣の忠義とは関係がなくなる。
主君の精神状態の正気と乱心との差は家臣にとって天と地の差がある。
このような茶番劇を演じなければならないところまで追い込まれたのは、綱吉が何の確証もなく、浅野内匠頭を正気と認めたからに他ならない。
それがすぐに激する綱吉の精神状態の異常さであったのだろう。
目付の意見を押し切って、浅野を正気と認めた綱吉によって忠臣蔵と呼ばれる仇討が演出されたとみていい。
綱吉の犯したもう一つの過ちは、喧嘩両成敗が家康以来、武士の習いであった。
それを、吉良を全くの無傷で放置したことが、赤穂武士の誇りを傷つけたと言えるのだろう。
この幕府の沙汰を理不尽とした大石内蔵助に吉良帝討ち入りの口述を与えてしまった。
上野介が刀に手もかけず、無抵抗であったから喧嘩ではないとはんだんされたらしいが、江戸の頃の旗本が刀を抜き合わせず、切り殺されたら、不覚悟を理由に改易されている。
綱吉の気まぐれは赤穂の浪士の仇討のうわさが流れるに及んで、吉良邸討ち入りは後にも述べるが、後に討たれるなら討たれてしまえと、警備不十分な本所へ屋敷替えさせている。
赤穂に吉良帝討ち入りは綱吉の無能さが演出したと言っても過言ではあるまい。
こんな徳川の歴代の無能な将軍が二百五十年もの間、日本を動かしていたと思うと、何とも情けない思いに駆られる。
この綱吉と言う男、若い頃は儒教についての学問をしたようだが、単なる机上の学問で四書五経などにしてもその真意をつかむことがなかった。
ただの書物の表面を撫でただけの、頭の中の知識でしかなく実際に活用できるほどの力量はなかった。
徳川歴代将軍の中でも最大の無能なそして有害な将軍であったろう。
浅野内匠頭がお預けとなった田村家でも即日切腹の沙汰に大いに驚き、しかも庭先切腹などと言う前代未聞のことに戸惑った。
ひとえに、頭に血が上った綱吉などと言う将軍の狂気の筋書きであったろう。
浅野内匠頭及びその家臣たちが、そのような馬鹿将軍と同時代であったことが不幸であった。
犬公方と呼ばれる如く生類憐みによって世を震撼させた悪法をも発布した暗君であった。
この綱吉の代で財政がひっ迫し、打開すべく不出来な家臣を盲信して、無様な貨幣改鋳などを行い、八代吉宗によって建て直されるまで江戸城の金蔵はからであったという。
綱吉の薄情さ、上に立つ者の資格に欠ける所作を挙げるときりがないが、浅野の仇討の噂が広がるや、警備上問題のある本所な出へ吉良を屋敷替えしている。
討たれるならさっさと討たれてしまえということなのだろう。
 
文化面では絢爛と花開いた元禄の世のではあったが、綱吉などと言う暗君の思慮のない一言で、多くの有為の武士を死に追いやり、多くの女たちに塗炭の苦しみを与えた、義挙四十七士の討ち入りにもこのような考え方があるということである。
 
古い時代の真実は判らない。
いや、ほんの数年前の、いや昨日、今日の出来事の事でも真実を見つけ出すことは殆ど不可能と言っていい。
人間は己にとって不都合なことは覆い隠してしまう習性を持っているのだから。
記録として残っていたしても、それが真実であると言う事とは別問題なのである。
 
 
 
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