徒然の書

思い付くままを徒然に

旧約聖書 出エジプト

 
思いついたこと、考えたことを、ランダムに書き綴っていったので、話が様々な処へ飛んでいる。
何も、古代史を語ろうというのではない。
読んでいて疑問に思ったことを折にふれて書き綴ったものを、そのまま載せただけのものに過ぎない。
聖書を読んだことのない人でも、高校の世界史の授業で出てくるので思い出した人も多いだろう。
ユダヤ教の信仰の基盤をなすとされている事件であるが、これについての史料と言うものが聖書以外に何も無いと言っていい。
その聖書の史実性については、その資料とするには甚だ心許ない。
その高校の世界史の教科書、教科書検定済みのれっきとした教科書に次のように書かれているらしい。
教科書を直接読んだわけではないので、引用の引用になってしまうが・・・
 
遊牧民であったヘブライ人は前千五百年ごろパレスチナに定住し、その一部はエジプトに移住した。しかしエジプトでは新王国の圧政に苦しみ前十三世紀に、指導者モーゼにひきいられて、パレスチナに脱出した。
 
出処 「改訂版 詳説世界史B」(2011)と言う高校の教科書
旧約聖書の謎  長谷川修一著 中公新書による――――――
 
ここでは、これは史実ですよと言っているのと同じで、出エジプトが十三世紀であると、何処から導き出してのであろう。
教科書にはその詳細はないという。
出エジプトがあれば、このヘブライ人は元々エジプトに住んでいたのでなければ、入りエジプトがなければならない。
 
ヤコブ一家のうちヨセフは兄弟に奴隷として売られて、エジプトに来ていて、そこで成功して王の側近となっていた。
その入りエジプトと言うのはヨセフによってもたらされた、ヤコブ一家のエジプト移住を指すのだが、移住してきた年代が何時だったのかわからない。
ヨセフが仕えていたエジプトの王、ファラオの名前がどこにも記されていない。
この聖書と言うのは宗教書であって、歴史書ではないので年代等や時期を確定できるものは記載されていないか、時期に関する数字的なもの、には疑問が多い。
この聖書に書かれた時代の史料と言うものは、聖書以外にほとんどないと言っていい。
聖書に書かれた、関係あると思われる数字を、伸ばしたり縮めたりしながら探り出すほかはないのだが、この聖書の数字自体が全く当てにならない。
もう旧約聖書に書かれた数字は、常識では考えられない様な滅茶苦茶な数字と思えるものがほとんどである。
それをどの様に塩梅するのか、その方法すらわからないと云った方がいい。
 
聖書では人類の祖と言われるあのアダムが百三十歳で子を造って、その後八百年生きて、九百三十歳で死んだ、とかいている。
アブラハム百歳、サラ九十歳で、子を生み、サラが百二十七歳で死ぬと、アブラハムは再婚し、更に数人の子を造り百七十五歳で死んでいる。
聖書の数字の信用できないのはこれで証明できるだろう。
 
ヤコブ親子が入エジプト入りしたのも、モーゼが出エジプトした年代も聖書には書かれていない。
出エジプトで書かれた数字は、その脱出した人数、女子供を除いて六十万人、しかもヒツジや牛を連れての脱出である。
女子供やその他を入れると少なくとも二百五十万人にはなるだろうと推測できるという。
これほどの人間が四十年に亘ってシナイ半島を始めあちこちを彷徨ったというのが聖書に書かれた物語である。
イスラエルへの脱出のルートさえ、確定していない。
人間生きていくうえで必要なものをどの様に調達したのだろう。
聖書には神が何か正体不明のものを用意したとは書かれてはいるが、事実と考える事はとても出来ない。
物語を作るにしても誰がどの様にシナリオを描いたのだろうか。
 
列王記上6-1を見ると、ソロモンがエルサレムに神殿を立てたのは出エジプトから480年後と記されている。
神殿を立て始めたのは凡そ前965
として考えると出エジプト1445年ということになる。
これが聖書の記述から割り出した数字である。
入エジプトから出エジプトまで430年経過していたと書かれているから、イスラエルたちの入エジプトは1875年でヒクソス侵入以前と言うことになる。
教科書に書かれたものと、聖書に書かれたものから引き出した年代がまるで合わないのである。
 
教科書は何を基準に書かれたものなのだろうか。
モーゼの実在性をどの様にして確定したのであろうか。
聖書申命記にはモーゼはモアブの地で、百二十歳で死んだ、とある。
聖書の中では最大の偉人ではあるが、聖書には主は彼をモアブの地の谷に葬られたが、今日までその墓を知る人はない、と申命記にはある。
モーゼと言う人物についての実在性については考古学的には証明されていないということである。
この申命記と言うもの、宗教家にとっては大切なものではあるのだろうが、我らが読むにはあまり面白くもない書である。
 
エジプトは前1720から1550年ごろ、カナン地域から来たヒクソスと呼ばれる人々の侵入を受けている。
ヒクソス自体が自分たちの王朝を立てたことも明らか。
エジプトがヒクソスを追放は前1570年頃
 
出エジプトが史実であるとすれば年代に誤りがあるか、あるいは物語の造り方のどこかに問題があるか・・・・・
この出エジプト時のエジプトのファラオはだれか、これ大変重要な問題である。
 
エジプトのどこに住んでいたのか、脱出人数は、ルートは、シナイ山とは、食料は、彷徨った年月は・・・・など細かいことを一つ一つ突き詰めても、この出エジプトの史実性を認めるには疑問が出てくる。
 
この様な不確実な推定に基ずく出来事や、主導者モーゼが実在した人物などとする、学校教育における、歴史の教育は国民を間違った方向へ導く可能性すらると言わざるを得ない。
 
このモーゼのシナイ山での神との契約の時、ふもとで待つ不安を感じていた人々が、アロンが作った偶像、金の牛を礼拝したとして殺されたのが三千人。
だが実際に金を集めて偶像を作ったのは、モーゼの兄アロン。
だがアロンは何故か殺されない。
依怙贔屓の多いヤハウエーではあるが、これは極端。
汝、殺すなかれと、戒を与えたヤハウエーがいとも簡単に民を殺害する、これが宗教書と言われるものに平然と書かれている。
ここまで来ると、宗教とは何ぞやと考えざるを得なくなってくる。
奴隷であってもエジプトに残っていた方が良かったと、思った民も多かった。
民の信を得られぬヤハウエーと言う神・・・・その神を只々盲信するモーゼの姿が浮き彫りにさされる、出エジプト・・・・・
 
モーゼの十戒と言われるものは単なる総論であって、その後に続く各論が驚くほど膨大な律法であるという。
その立法の多くは条件法と呼ばれるもので、「もし~ならば」という条件を述べて後それに対応する規定が設けられているらしい。
これはハンムラビ法典と同じ律法の用い方で「目には目を、~」などモーゼの律法と同じ律法部分がある。
 
だが十戒にある、総論部分の姦淫するなかれ、殺すなかれ、は絶対条件である。
それを神だから許されるとすれば、神を信じることが出来ないのも当然というべきか・・・・
この様な不公平や、簡単に民を殺戮するなら、改宗せざるを得ない、民にとって益のない神は不必要、と恫喝するぐらいは必要かもしれない。
聖書に書かれた、ヤハウエーとモーゼのやり取りを見てると、ヤハウエーと言う神、余り切れ者ではない様な気がする。
                                                                                                                        to be continued
 
参考文献
旧約聖書の謎                  長谷川修一著                   中公新書
旧約聖書                        創世記                             岩波文庫  
旧約聖書                          出エジプト                       岩波文庫
 
 
 
イメージ 1
 
 
(本ブログの全ての写真は著作権を留保。無断使用・転用・転載・複製を禁ず。)
 
 
 
 
 
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー