徒然の書

思い付くままを徒然に

日本の歴史 ~乙巳の変~

官僚共が躍起になって、我が国の間違った歴史を国民に植え付けようと、目くじらを立てて、教科書の記述を検閲している。
縄文時代が今から一万六千年程前から紀元前4~5百年頃と言われている。
長い長い縄文時代から弥生時代に移るころから、紀元後5~6世紀にかけて、千年もの間渡来人の流入があった。
三世紀半ばころ、畿内前方後円墳が現れ、大和朝廷が成立したと考えられている。
丁度その頃、北九州では頃邪馬台国が二世紀後半から三世紀後半に起こっていたから、大和朝廷と同時代であったろう。
ところが、三世紀後半の古墳と言われている箸墓古墳卑弥呼の墓ではと言われだしたのだが、卑弥呼の没年、248年とするとちょうど一致する古墳である。
ただ卑弥呼という呼称は外国でいわれていた名前で、我が国では使われていない。
箸墓が卑弥呼の墓だとすると邪馬台国畿内にあったことになる。
とすると、卑弥呼って誰だってことになるのだが、それがはっきりとはしない。
 
四世紀の我が国は安定期ではあった。
中国の歴史書などによる倭の五王の時代で、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略が日本書紀などによるものだが、宋書などによると、多少の違いを見せる。
宋書などによると・・・珍は讃の弟だというから・・・・
讃=履中、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となる。
 
この雄略と言う男がまれに見る暴君で、近親の殺戮を繰り返し、とうとう王位の継承者が途絶えてしまう。
この男、陰険姑息、残虐さに欠けては人後に落ちない、悪大王であったらしい。
民草に悪大王だと言われるほどであった。
何十人の人間を殺戮したろう、数えるだにわずらわしい。
五世紀の独裁王によって疲弊した国力を、六世紀に入って、渡来系の知識を生かして、財政を立て直していたのが、厩戸、や蘇我一族であったと言えるのだろう。
推古の皇太子として、行政改革に取り組んだ厩戸や蘇我一族の立て直したものを、あるいは蘇我一族が立て直した六世紀の朝廷の勢力を一挙にぶち壊したのが乙巳の変といえないだろうか。
因みに、厩戸は摂政とよく言われるが、この時代摂政と言う制度はなかったようである。
今までは地方豪族を通して豪族の私有する部民から労働力と貢納品を得ていたのを、王家が直接支配し自らの裁量し、すべてを支配したいという、支配欲の現れ、少しでもいい思いをしたいと思ったのだろうが、そうは問屋が卸してくれなかったようである。
欲惚けの欲望の現れであったに過ぎない。
権力を振るう者への羨望と妬み、己がそれに取って変わろうとした反乱に過ぎなかったのでは・・・・・
 
天皇家を蔑にし、政を専断した蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子中臣鎌足古代の日本に夜明がやってきたとでも思ったかもしれない。
何も日本の夜明けなどではなく中大兄等の支配欲の表れだったに過ぎない。
この後の中大兄の暴走で、国家壊滅に近い事態になるのは、中大兄の欲惚けの頭で判断した百済への出兵であった。
ただ気になるのは、中臣の鎌子(中臣鎌足)と言う男が突如歴史の舞台に現れたことである。
この鎌足の子孫が日本を牛耳ることになる、藤原一族を形成していくことになる。
 
我が国の古い歴史の中で、大王家とよばれた支配者たちは時には、国家を壊滅に導くような凡庸、無能な大王は現れているが、ついに一人として頭脳優れた傑物は出なかったようである。
蘇我氏を滅ぼした中大兄は己の力を過大評価したのだろう。
後に、難波の宮から取り巻を引き連れて、勝手に明日香に帰ったり、朝鮮に出兵して、唐の属国になるほどの手痛い敗戦をしている。
人間、幸運に恵まれて、一事に成功すると、それが己の実力だと想い違いをすることは時として起こることであるが、頂点に立つものがその様な錯覚を起こすと国を滅ぼすことになる。
その様な己の力を過信した錯覚に陥るのは無能なものほど、陥り易く取り返しのきかない災厄を齎すことが多い。
近世における、大戦を引き起こした東条然り、この様な無能者を頂点に据えたのは日本と言う国の不幸であったのだろう。
中大兄の白村江の敗戦も、海で隔たっていたため占領の屈辱こそ免れたものの、それに匹敵するほどの壊滅的大敗であった。
この様な無能なものが後に大王家の主、天智と呼ばれて、国を支配しようとするのだから恐ろしい。
ただ解せないのは、この白村江の前後、中臣鎌足の姿が消えていることである。
こんなところから鎌足朝鮮人であったという説が流れ出ているのかも知れない。
だとすると、鎌足の子、藤原不比等の系統の子孫、藤原一族が現代に至るまで、延々と朝鮮人の血脈を引き継いで、日本を牛耳っていたことになる。
この時期、百済など朝鮮との交流が頻繁であったから、随分と血が混ざったものも多かっただろう。
 
閑話休題645乙巳の変、これは、中大兄皇子中臣鎌足等が、蘇我入鹿とその父である蘇我蝦夷を殺害し、政権を奪取した事件である。
当時、蘇我氏は日本で最大最強の豪族であり、日本を朝鮮系皇族支配から脱却させ、仏教を国教とする国造りをしていた、とする説もある。
この実力者を弑いしたのであるから、大満足で有頂天になっていたであろう。
大王家を蔑にしとは言っても、この時代皇位の継承順位などは確立されていなかった。
蘇我氏が政を壟断したとは言っても、当時の政治支配は合議制で行われており、専制と言うべき程のものではなかったではなかろうか。
皇位の継承さえ、その場その場の行き当たりで決定していた大王家の権威のなさが、表面化したに過ぎない。
傍系へ行ったり、同じ人間が重祚したり、継体のように五世の子孫などと言う途方もない血筋の継承が行われたりしている。
これが万世一系の正体であり、日本書紀が信頼できないとすると、それまでの皇位の継承まで疑義が生ずることになるのは当然であろう。
此処でも、この大化改新時代の大王の血筋は朝鮮系の人間だったという説も出ているくらい、大王の血筋には信が置けない。
百済系、あるいは高句麗系の王族の血筋であるという説も出ており何時の時代に倭の血筋に戻ったのかさえ定かではない。
事実、蘇我の稲目に二人の高句麗妻がいたと言われており、稲目の子を大王家に嫁がせ、外戚関係を結んでいる。
そのことから考えても、大王家に朝鮮民族の血が入っているだろうことは明らかであろう。
 
尤も、現代においては万世一系の皇統などとは信じているものはいないのだろうが、所々で断絶しているのは明らかなのだから・・・・
子供の頃、神武天皇から始まった、天皇家天孫降臨の子孫で尊いひとであるから、皇居に向かって礼拝しなければならないなどと、教え込まれたものである。
乙巳の変聖徳太子が行った行政改革の反動勢力、蘇我入鹿かを討ち果たした中大兄皇子と中臣の鎌足の政治的なクーデターであったというのが名目であったのだろう。
ただ、蘇我一族の権力の強さは確かであったようであるが、実際に政を壟断していたのかどうかさえ確かではない。
政は国家のため民衆のために行うもので、蘇我一族が民草にをも阻害していたという事実は明らかにはされていない。
大王家の権力争いか、臣下の権力争いか、要は己が頂点に立ちたかったのが真意であったろう。
とは言っても、すぐに皇太子である中大兄が即位しても民衆の手前差し障りがあろうという中臣の言葉で皇位に付くことはなかった。
それ程、中大兄と中臣とは民草に人気がなかった様である。
 
此処で皇位の移譲に少なからぬ作為が行われている。
皇極が退位して、乙巳の変のと関わりのない孝徳が棚ぼた式に即位するのだが、余り出来のいい男ではなかったようである。
この時代、殆ど理由にならない理由を付けて、邪魔者を弑していた。
讒訴讒言を真実を調べることもなく、簡単に受け入れ謀反として弑している。
些細な事柄について、無暗矢鱈に詔を発しているのも、小物臭さを感じさせる。
この後、孝徳は大化改新と言われる、詔を発していくことになるのだが・・・・
次の機会に・・・・・
 
 
 参考文献
大化改新の謎    関 祐二著   PHP文庫
古代史の真相    黒岩重吾著   PHP文庫
 
 
 
 
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