徒然の書

思い付くままを徒然に

聖徳太子の謎

 
日本で聖徳太子といえば知らぬ者のないほどの有名人ではあるが、その実像を知っている人は少ない。
聖徳太子について日本書紀に最初に出てくるのは用明天皇の項である。
穴穂部間人皇女を立てて皇后とした。
この人は四人の子を生まれた。
一番目を厩戸皇子と言う。―――またの名は豊耳聡聖徳と言う。あるいは豊聡耳法大王と言う。あるいは法主王と言う。
この皇子は初め上宮にお住みになった。後に斑鳩に移られた。
推古天皇の御世に皇太子となられた。すべての政務を統括して、天皇の代理をなされた。
これが聖徳太子についての日本書紀の最初の記述である。
 
この人は様々な名前で呼ばれているのだが、先の日本書紀に書かれた以外では推古天皇の項に厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とされた、と書かれている。
実に多くの名前で呼ばれていたようであるが、本名はと言うとはっきりとはしない。
皇后は出産予定日に禁中を巡回しておいでになったが、馬司の処においでになった時、厩の戸にに当たられた拍子に、難なく出産された。と書かれている。
これはキリストが生まれた時の話が、伝わってきているのを、書紀編纂の時にパクッたのだろうと言われている。
世に偉人とと言われる人の生まれた時、死んだときは、ドラマチックな書き方をされている。
大使の死んだときの記述は、どの天皇の時より扱いが重かった。
王族、群臣、天下の民は嘆き悲しみ・・・・泣き叫ぶ声は巷にあふれたという。
太陽も月も輝きを失い、天と地が崩れ去ってしまったかの様だ。これから後は誰を頼みにすればいいのだろう、と語り合ったとも言われている。
 
まあそれはさて置き、聖徳太子が目指した政治とは一体どの様なものであったのだろう。
六世紀の日本は外交の失敗、確くとした政治体制のない、行き当たりばったりの統治が災いして、国力を極端に落としていた。
大和朝廷と言われるものも、雄略などと言う大王が出て近親を殺しまくったために、武烈の時に系統が途絶えてしまった。
苦肉の策で、五世の孫とというとんでもない遠い血筋の田舎貴族を大王に立てる不始末を起こした時期であった。
この五世の孫がいわゆる継体なのである。
蘇我一族の祖が勃興したのもこの頃であったらしい。
その混乱も、聖徳太子の出現で、一挙におさまったらしいのであるが、現今言われている、聖徳太子の業績は冠位十二階、一七条憲法の制定。隋との国交樹立、、仏典の注釈書を記した、と言われるくらいのものであろう。
 
この程度の事で一挙に国力が回復するものであろうか、今に照らしてみるとはなはだ疑問である。
財政も逼迫していたであろうこの時期に、法隆寺をはじめ大型の寺院をいくつも建立するなど、並の政治屋とどこも違ったようには思えないのだが。
 
ただ言えることは冠位十二階の制定によって、朝廷の役人に階級組織を導入したことで、有能な人材を取り上げることが出来る様になった。
この制度がうまく作用すれば大きな効果を発揮するが、現今の役人の様に政治屋の制御からはみ出してしまうと、始末に負えない政治体制になってしまう。
現今のように行政改革などといっても、実際は如何に官僚の力を弱めるかの対策を講じる事が主な目的となってしまう。
それが早々に、七世紀の蘇我一族、八世紀の藤原一族による政の壟断となって表れる。
事実、これらの豪族によって、天皇の力は完全にそがれてしまっていた。
 
冠十二階の基になっているものは中国の五常思想であるが、仁、礼、信、義、智で、陰陽五行思想に関係している。
この五常の上に、徳、を置き、それぞれ大小に別けて、十二階としたものである。
次に、十七条憲法日本書紀に載せられている。
この十七条憲法は上宮王家の内規だったものを、それを朝廷が定めたものとしたという説もある。
 
 一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有党。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。
 
十七曰。夫事不可断独。必与衆宜論。少事是軽。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故与衆相弁。辞則得理。
 
あの有名な以和為貴、和を以て貴しとす、の一条から・・・・そして、一七条で物事は独断で定めてはならない。
必ず衆と論じ合うようにせよと。結び政の壟断するを禁じている。
 
太子の人間観の表れなのかもしれない。
そして厩戸の最後の言葉、世間虚仮、唯仏是真、だが、これは仏教の本質を言ったのだろうか、世間とは世のもろもろの事を暗に指して、世は所詮は儚いもの、真なるものは仏のみ、と嘆いたのではないだろうか。
 
隋との国交樹立という外交手腕を発揮したにも拘らず、太子の国書の内容が、日本書紀にはだだの一行も書かれてはいない。
ただ隋書に頼る以外にないという。
 
聖徳太子の一族を滅亡に導いたと言われる蘇我一族、その蘇我を滅ぼした中大兄と孝徳、更に日本書紀を編纂した中臣の子孫、藤原一族の関係は正確な記録がないだけに今、正確な事を知ることは推測に依るしかない。
太子は用明の王子で、大王の一族であるが、崇峻が弑せられたとき、何故皇位につかなかったのだろう、と思うのが私の若い頃からの疑問であった。
太子が今でいう成年に達したころ、大きな事件があった。
泊瀬部すなわち崇峻が暗殺された。
太子にとっては叔父にあたる大王が蘇我馬子に殺されたのだから、太子にとってはとても大きな事件であったろう。
太子がどの様に振る舞ったのか記されたものはない。
ある本によると、江戸の学者連は厩戸は傍観していた不忠者であると、断じているという。
 
蘇我一族に滅ぼされた太子の子、山背大兄王は太子の子ではなかったなどの説さえ出ている。
この平安の時代既に多くの人が太子と山背の親子関係を疑っていた節があるという。
太子の伝説を集めて記された上宮聖徳法王帝説などの記述には、何とも微妙な言い回しをしているらしい。
はっきりと否定するのではなく、そうゆうことを言ってはいけないい、というような記述の様である。
 
最後に厩戸は大王であった。
日本書紀が厩戸大王を消去しているのは蘇我入鹿などにより、厩戸の子山背大兄王一族の襲撃による大王一家全滅によって大王の血縁が続かす、書紀編纂の立場からは書けなかったとする説もあるという。
だけれども、、推古と組んだ馬子によって弑せられた崇峻大王は太子の母、穴穂部間人皇女の同母弟であったことを考えると、厩戸は推古と馬子によって随分と政治的に疎外されたことは容易に推測できる。
聖徳太子の平等主義は太子の人間性の現れであり、彼の死による諸王族や臣、その他の人々の嘆きの深さは、書紀の記述からも十分にうかがい知ることが出来る。
 
太子について書かれたものを一つ一つ見ていくと、途方も無いほど色んなものが出てくる。
描かれた太子の人間性を考えると、政治の様な薄汚いものには似合わない様な気もするのだが、それだからこそ権力を集中させてみたいような気もする。
いずれにしても、聖徳太子については謎が多い。
 謎の多い造られた人物像だけれど、今の日本をこのような人物に舵を預けてみたい。
 
 
参考文献
古代史の真相                  黒岩重吾        PHP文庫
古代史の秘密を握る人たち        関祐二著            PHP文庫
日本書紀                          宇治谷孟        講談社学術文庫
 
 
 
 
 
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数寄屋侘助
 
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