徒然の書

思い付くままを徒然に

影武者家康

 
家康は幕府を開いて、将軍職を秀忠に譲って、駿府城で往生したのが通説ではあるが、どんな事柄にも異説はあるもので、この家康の生涯にも異説がある。
徳川実記(正確な表現ではないが)などに書かれている記録は公式記録とはなっているが時の権力者に不都合なことは削除されるか、書かれず、あるいは都合の良いように書き直されているのが当然で、史実としての信憑性は薄い。
先にもちょっとふれたことがあるが、信長公記なども、書かれたのは秀吉の代になってからで、秀吉によって手直しされたところが随分と存在する。
明治になって、徳富蘇峰の民友社から村岡素一郎が出した史疑徳川家康事跡と言う書に、影武者説が述べられている。
 
これは初版を出しただけで、再販はされなかった。
明治の頃はまだ徳川一族は多数存在したろう。
家斉の様な色情狂とも見まがう男が、子供を量産したのだから、その子孫はまだまだたくさんいたであろう。
それらが猛反対したことは当然の事であったろう。
家康を神君と崇め奉ったのだから・・・・・
 
この書に限らず、家康が天寿を全うしたという通説以外にも、影武者説は現れている。
家康が影武者と入れ替わったとする時期には随分と開きがあるが、村岡説は驚くほど早い時期に、入れ替わったとしている。
この説を採ると、信長の要求に何のためらいもなく、長男信康を死に追いやったことは何となく頷けるような気がする。
この村岡説は桶狭間の後早々に家康が殺されたことになっているが、なるほどとうなずける理由はしっかりとつかんでいる。
昭和の三十年代に入って南条紀夫や榛葉英治が影武者説を出版している。
その中で面白いのは隆慶一郎影武者徳川家康が面白い。
古本屋で見つけた一冊100円也の上中下の三巻であるが、実に面白い。
秀忠など、良いように翻弄される所など痛快である。
尤も、徳川の血筋なのか十五代の将軍で、人の上に立てるほどの人物は見当たらない。
老中と呼ばれる執政衆のなすがままの将軍家であったようである。
 
これは桶狭間より一時代も二時代も後の関ヶ原での暗殺によって影武者が入れ替わってしまうのである。
影武者を務めるくらいだから、体格や風貌などではほとんど区別がつかない。
家康の習性等も常時そばで観察しているのだから、余程の者でなければ見破ることは難しいのであろう。
遅れて参陣した能天気な秀忠などあっさりと騙されてしまう。
 
難問は、女好きな家康にはこの歳でも側室の五人や六人はいただろうが、その側室をどの様にだますかこれが最大のネックになる。
如何に風貌や仕草が似ていても、閨事でだますことは絶対に不可能であろう。
この時代大将が先陣にあるとき、側妾を伴ったものである。
この先陣に、家康の側庄っが来ることになって大慌てするのだが・・・・・
 
この側妾、大層な切れ者であったらしい。
・・・・いずれも局が聡明に感じ。これが男子なら一方の大将を承りて、大軍を率いる・・・・・と言われるほどの女であったらしい。
 
見破られ、騒がれれば手打ちにするしか無いのだが、女の聡明さを見込んで事実を打ち明けて事なきを得る。
此処が小説の面白いところであるが、実際の処将軍になってから後に取った家康の様々な行動を見ると、家康にあれほどの頭脳があっただろうかと、思うような施策がたくさんあると、今までも思っていたことである。
 
家康の遺訓として有名な・・・・
 
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。
こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
 
この文体、江戸初期のものとも思えない程歯切れのいいまとまりを見せているような気がする。
家康にこれほどの言葉を残す器量があったとは思えないのだが・・・・
因みに、水戸光圀「人のいましめ」天保会記に似たような言葉があるという。
只々、忍耐を要する、六万回の日課念仏の方が真実の様な気がするのだが・・・・
 
 
 
 
 
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