徒然の書

思い付くままを徒然に

神々の嫉妬と傲慢

神々とは言っても古代のオリンポスのギリシャやローマの神々を信ずる者は、この現代にはもういない。
だが現代の人間の心の奥底には、この古代の神々のものの考え方が、しっかりと受け継がれているような気がする。
 
古今東西、見てはいけないよと言われたものは数多くの話や物語に出てくる。
その大元は、恐らくギリシャ神話なのではなかろうか。
我が国の古典でも有名な伊弉諾伊弉冉尊の話などがあるが、ギリシャ神話にはその様な物語が数多く存在している。
何処の国の神々でも、とても嫉妬深く、傲慢な輩らしく、人間に、いや人間に限らず、己より優れたものが現れると、それを排除しようと画策するのが常である。
そんな神々の行為を人間共がまねて、己より優れたものを見ると様々な陰険な手段を弄して、葬り去ろうとする。
ゼウスのプロメテウスに対する嫉妬、アプロディテのプシュケーに対する嫉妬の物語は、神の人間に対する嫉妬から始まる虐めであるが、それが発展して、有る意味では見てはならないものを見たために、よからぬ結果になってしまう話へと続いていくのである。
尤も、アプロディテに限らず、ゼウスの妻であるヘラという女神も、とても性の悪い女の様だ。
国の名前がゼウスが寵愛する女と同じ名前だという理由で、一つの国を荒廃させてしまったり、ギリシャの女神は性悪女の様である。
 
見てはいけないよと言われたものは、如何してか見たくなるのが人間共の共通の心理であるらしい。
そんな物語は世界至る所に転がっている。
アダムとイブなどがその最先端を行くものであろうが、こやつ等のために、人間が原罪を背負うようになった、ことを思うととても許せるなどと言うものではなかろうとは思う。
尤も、ミルトンなどに言わせると、原罪とは神の知恵に近づこうとした罪で、人間の傲慢を意味すということらしい。
知を得ることが、なぜ罪なのか・・・・・
絶対の服従を要求する神にとって、人間が知を得ることは非常に都合が悪い。
私に言わせると、神の傲慢さこそ底が知れない。
ギリシャ神話などではその神の傲慢さで、人間共は随分と苦しめられ、苦痛を味わわされている。
知恵を得ようとする人間の傲慢さなど、神の傲慢さから比べると可愛いものである。
このミルトンの失楽園などを読んでいると、世の男尊女卑と言うのもこのイブとアダムに起因するらしい。
~~~を見てはいけないよ、という一言が、人間の心をくすぐり、よからぬ結果へ導く、何とも厄介な言葉であり、人間を誘う魅力を有する言葉なのである。
世の中で、人を試すにはとても都合のいい言葉なのかもしれない。
創世記によると
2:15主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 2:16主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 2:17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
 
人にはふさわしい助け手が見つからなかった。 2:21そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
「これこそ、ついにわたしの骨の骨、
わたしの肉の肉。
男から取ったものだから、
これを女と名づけよう」。
 
日本語にすると、何故男から取ったから女なのか、この意味が良く解らないのであるが、何故女なのか・・・・・
英語の  womanwo-には女性とか妻を意味するらしい。
とすると何かわかったようなわからない様な・・・・・・・
 
3:6女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
蛇がイブを唆すしたのであるが、失楽園ではサタンが神への復讐のために蛇の姿を借りて、イブを唆したことになっている。
その結果、人間は知らなくてもいいことまで知った。
ミルトンの失楽園はこの創世記がネタ元なのであるが、食べてはいけない木の実を食べて、男にも食べさせた。
このとき、女が男を誘いこんで、男にも原罪を背負わせた。
女の罪に従って男も罪に堕ちる。
女にはその弱みがあって、男に頭が上がらなくなったとも解される。
世の多くで男尊女卑が解消されるまで、この関係が続くことになる。
この普遍的な関係がこの時から始まった。
 
世の様々な事がこのエデンの園から流れ出ている事が多いのかも知れない。
 
ミルトンは最初に、禁断の木の実について次のように書いている。
人間がこれを食べたために、この世に死と我々のあらゆる苦悩がもたらされ、エデンの園が失われ、そしてやがて一人の大いなる人が現れ・・・・・キリストの出現までを書いている。
ミルトンの神への忠誠は、これ以上はないという言葉を使って崇めている。
「神に永久に変わらぬ感謝をささげ、神の意志を真摯な気持ちで受け止め、私たちが存在し、生きていく窮極の目的である神の意志に、生涯変わることなく常に従っていきたいと思うのです。」
これが根本に流れているのが、ミルトンの失楽園・・・・・
だが、主題はあくまで神に抗うサタンの心意気。
 
この失楽園、小説の様ではあるが、ミルトンはあくまで叙事詩として歌い、書き綴っている。
とは言っても人間に関わる普遍的なものとして書かれたもの、小説みたいなものと思ってもいいのでは。
 
処でいつも思うのだが、旧約聖書に現れる神はユダヤ教の神ハヤウエーだが、キリストの父なる神もやはりハヤウエーとすると、随分性格が変わったような気がするのだが・・・・・・・
新約になってからは、嫉妬を口にすることも少なく荒々しさも影をひそめてきたような気もするのだが・・・・・・・
ついでにイスラム教による神もハヤウエ―・・・・・・
それぞれで神の性格やその表われ方に随分と大きな違いがある。
日本の神をも含め、神とはなかなか厄介な代物ではある様だ。
 
尤もミルトンは失楽園で言いたいことは、これらの事とは全く違うのであるが、
失楽園自体については又次の機会に・・・・・
物語とは言っても、叙事詩であるだけに、実に華麗な文章である。
神と言う奴、誰に対しても絶対の服従を要求する。
それに抗うのがサタン、このサタンの物語と言うのが失楽園なのであろう。
その抗う方法が面白い・・・・・・人間を堕落させることによって。
神々に抗うサタンの心意気が実に痛快。
 
華麗な文章とは言っても、語句についての脚注が多くすんなりとは読み進められないのが難点と言えるかもしれない。
 
 参考文書
ブルフィンチ ギリシャローマ神話 大久保博訳 他 角川文庫 他
旧訳聖書 創世記
ミルトン 失楽園 平井正穂訳 岩波文庫
 
 
 
 
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