聖母マリアの崇拝の謎
外国の映画やドラマを見ている時、マリア像に祈る場面をよく見かける。
このマリア崇拝、キリスト崇拝より強いところがあるとも言われている。
マリア信仰って何・・・・・ってことになるのですが、聖書にも殆どと言っていいくらい登場してきません。
しかもマリア崇拝っていうのを見ると、殆どがマリア像を拝んでいる。
カトリックなどでいう、ロザリオの祈りっていうのはマリア崇拝を意味しているとみていい。
マリア像を拝むって言っても、キリスト教は偶像を禁止していたのでは・・・・・
偶像云々は後の事にして、何故聖書にも祈りの対象とされないマリア信仰が多いのか、この不思議をキリスト教者はどう解釈するのだろうか。
ところで、つい先頃見た古い映画で、牧師にマリアの無原罪懐胎の話をと持ちかけてる場面に出合った。
この無原罪懐胎って、初めて耳にする言葉で、なんだろうと思って調べてみた。
無原罪懐胎(むげんざいかいたい)とも・・・・
何故マリアが無原罪なのか、説明は苦しい。
如何説明しようと、キリスト教の根本を揺るがす、最重要な問題ということを認識しなければならない。
無原罪と言うのは、原罪を背負わないで生まれたということ、何故無原罪なのか、説明はつくまい、説明しろと言ってもどだい無理な話・・・・・
無原罪の御宿りの教義は、「マリアはイエスを宿した時に原罪が潔められた」という意味ではなく、「マリアはその存在の最初(母アンナの胎内に宿った時)から原罪を免れていた」とするものである。 とwikipediaは記している。
マリアの母がアンナだとは…初めて知ったのだが・・・・・
このアンナにしても、マリアにしても、何処の馬の骨か系譜など全く不明な女。
そのほか、聖書などにも、マリアが何故原罪を免れていたのかの説明は何処を探しても、見当たらない。
こんなもの論理的に説明できる代物ではないのだから・・・・・・
キリストが人々の原罪を背負って十字架に架かった、と云うのがそもそもキリスト教の根本なのだから・・・・・・・この世に無原罪のものがあっては困るのである。
先の映画で、質問された牧師が、苦い顔をして逃げ出したのも当然であろう。
生半可な牧師や宗教者では、すっきり答えられるものなど皆無であろう。
同じキリスト教でも宗派によって、全く考えが違うのだから、如何にいい加減な話であるか自ずと分かろう。
人は皆、原罪を背負っているというキリスト教の根本原理を、いとも簡単に曲げることが出来るということは、この後も無原罪の者が現れる可能性があるということを意味すると解することが出来るだろう。
もはや、キリストが人々の原罪を背負って十字架に架かったということ自体が意味を為さなくなった。
キリスト教教義の崩壊としか言い様がない。
この世に生まれ来る者が、アダムやイブの罪まで背負って、罪人にされたんでは堪ったものではないのだが、キリスト教徒でなければ関係ない、目くじら立てても仕方あるあるまい。
しかも無原罪は時としては認めるというのだから・・・・・・
原則は一度破るともはや原則ではなくなってしまう、次々に破られるということ、これに歯止めをかけることは難しい。
でも何故、マリアが原罪を背負っていないのか、知りたいのが人情というもの・・・・
マリア崇拝って、どうして起こってきたのだろうと調べては見たが、聖書にはマリアについては殆ど記されてはいない。
無原罪懐胎などと言うもの自体、カトリックが19世紀になって初めて、正式に教義のの中に取り入れられたらしい。
西欧の教会などへ行くと、マリアの肖像ばかりで、キリストのものを探すのに苦労するくらいだという人もいる。
モーゼの十戒を見ると確かに、偶像を作ってはならないと記されている。
ロザリオの祈りに使うロサリオの先端に付いたあの十字架も、厳密に言えば偶像と言えなくもない。
聖書のあちこちを読み散らかしてみると、次々に疑問が湧いてくる。
たったこれだけの事にでも、苦しい説明をしなければならないのが聖書と言うものらしい。
聖書っていうものが矛盾に満ち満ちているのは、つぎはぎだらけの寄せ集めの書だから仕方のないことなのかもしれない。
偶像崇拝についてはまたの機会にして、マリアについて・・・・・聖書をめくってみても、殆ど何もないと言っていい・・・・・
疑問に感じたことを思いつくままに書き綴ってみた・・・・
その様な連中によって、キリスト教は広められた。
イエスは神によって孕まされた女から生まれたと言うだけで、系譜とは全く関係のない人間・・・・・
ギリシャ神話風に言えば、半神・・・・
とは言っても、マリアが神と交わったとは書かれていない。
マリア自体もヨセフの婚約者と言うだけで、辿るべき系譜もない、どこの馬の骨かわからない女としか思えない様な聖書への登場である。
それを突如として無原罪だと言われても、おいそれと納得できる性質のものではなかろう。
如何やらカトリックの指導者たちはごり押しが好みの様だ。
と書くと、マリア崇拝の人々は目をむくだろうが、事実その辺を歩いている娘と何ら変わりのない女としか思えない。
ギリシャ神話などでは、神と神が交わったり、神と人間が交わって、子をなすことはあるのだが、キリストの父なる神はどんなトリックを使ったのか、人間の乙女を孕ませてしまった。
それが近代においてカトリックでは、キリスト信仰よりマリア信仰の方が強いらしい。
信心など、鰯の頭も信心からと言われるほどだから、人が何を信じようとかまわないが、処女懐胎以外聖書には登場することもない、マリアと言う女が如何してそれ程の信仰を集めるようになったのだろうか・・・・・・
マリアにそれ程の神性を見出させる根拠は何なのか・・・・・
人の心って解らないと、つくづく思う。
そうすると、宗派によっては、イエス信仰よりもマリア崇拝の方が強いというのは、どう説明するのだろうか・・・・・
イエスが神の子であり続けるためにも、マリアは永遠の処女である必要があった。
そう思うのは間違いだろうか・・・・
血の繋がりと言うのは、ある場合にはとても重要な意味を有する。
徳川の時代、大奥なるものが存在した、その存在意義は将軍の種、将軍の血筋に疑惑が起きないことを確保するためであった。
使徒伝に以下のような記述がある。
と云うことは、普通に考えると、イエスを産んだ後、婚約者ヨセフと結婚し、子を産んだということになる。
この兄弟たちは、母マリアを通してイエスと血の繋がりがあるということである。
このマリアと言う女、神の子を産んだり、人間の子を産んだり忙しい女である。
無原罪の女から生まれた子、すなわちヨセフとの間の子は何故原罪を背負っているのか・・・・・・
その様な女をどうして無原罪などと言う特例を認める・・・・・教義の崩壊のなにものでもない。
それゆえか宗教者はキリストとは兄弟ではなく、従弟だと苦しい説明をするのだが、使徒伝の記述は誤りということになり、聖書の中に誤った記載があることを認めるということにもなる。
ということは聖書の記述は、都合によっては誤った記述である場合もあるということを認めることになる。
キリスト教義の破綻と言わざるを得ない。
またマリアについて書くこともあるだろうが、今日はこのくらいにしておこう・・・・・
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