徒然の書

思い付くままを徒然に

古事記などを読んでいると・・・・神々は・・・・・

 
日本に最初に現れたのが神と呼ばれる連中・・・・
その神が陰陽二つに分かれて、
男神、女神になり様々なものを生み出していく。
今我が国では、神々を崇拝している人も多いだろう。
信仰とまでは言わないまでも、
初詣には国民の大多数が神社に行っている計算になる。
我が国には様々な神があり、それぞれの信仰の対象は違うであろうが、家の神棚などに祀るとき、主神は恐らく、お伊勢さん即ち天照大神・・・・・
この神は、伊弉諾伊弉冉尊によって生まれたのが、
須佐之男と姉の天照大神・・・・・
この二人が兄弟喧嘩の末、
姉の天照大神が天の岩屋戸に入ってしまい世を暗闇にしてしまう。
これでは人々は堪ったものではない・・・・
神とは人々に恩恵をもたらすものと言うので、人々の信仰を集めるのであるが、人の迷惑などどこ吹く風、多寡が兄弟喧嘩で、世を闇にするようではとても崇拝する価値のあるものとは言えない。
この様に、世の宗教として起こった世の神々が人間にどれ程過酷な事を強いたか調べると人類を滅亡させ様とするほどのことを、当たり前のように行っているのである。
神が人間を作ったなどと言うことらしいが、その己の作り方の悪さを棚に上げて、良きものだけを生かして、あとは滅ぼしてしまえなどと言うのは一度は神と崇められた者のすることではない。
人間の本性を良きものとして作ればこのようなことは起こらなかった。
人間は放っておけば悪を為すものものとして作った、人間作りの失敗に神自体に反省があれば、旧約にある様な行為は為さなかったかであろう。
 
同じ様に思う人が、西暦2世紀に出ていた、マルキオンである。
マルキオンは恐らく同じような考え方であったのであろう。
マルキオンは“旧約聖書”の神を退けてしまった。
その神は暴力的で復しゅう心に燃え,
自分を崇拝する者たちに物質の報奨を与える独裁者だとした。
 
ノアの方舟然り、ソドムとモゴラ然り、バベルの塔然り・・・・・
しかも、依怙贔屓をして特定のものだけを助けようなどと、
考えること自体が姑息である。
こんなものを神と呼ぶのもけがらわしい。
 
ノアの洪水の後、人間はみな同じ言葉を話していた。
そして人間は様々なものを手に入れた。
この様な、技術の進歩は人間を傲慢にした。
天まで届く塔のある町を建てて、有名になろうとしたのである。
彼らの父祖たちが滅ぼされたことに対する復讐だというのだろう。
人々は、神に服するのは奴隷になることだと考えて、
王のこの勧告に熱心に従った。
そこで彼らは塔の建設に着手した。
神は人間が進歩するのは、
神に反抗しているとでも考えているのかもしれない。
実に料簡の狭い神があったものだ。
 神は、人間の高慢な企てを知り、心配し、怒った。
そして人間の言葉を混乱させた。
エホバでさえこうなのである。
 
 今日、世界中に多様な言葉が存在するのは、
バベルの塔を建てようとした人間の傲慢を、神が裁いた結果なのである。
どんな宗教上の神であっても、人間に慈悲を給い救済するそれが宗教だと、世の多くの人々は思っているのだろうが、
宗教の奥底に鎮座する神自体が非情なものであれば、
頼るに値しない物であろう。
 
我が国の神にしても争ってみたり協定してみたり、
神とも思えぬ人間臭さが漂う神々である。
そんなこんなを考えていると江戸の頃に流行したお伊勢参りなど、
信仰と言うより、庶民の憂さ晴らしであったのかも知れない。
 
 
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
 

(本ブログの全ての写真は著作権を留保。無断使用・転用・転載・複製を禁ず。)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー