徒然の書

思い付くままを徒然に

稀代の色情狂白河院

 
崇徳天皇が退位させられ、乱を起こし、讃岐に流されて、その地で崩御するのだが、様々な経緯からこの崇徳院が怨霊となって祟る伝説は夙に有名である。
この崇徳の怨霊の強烈さは将門の怨霊に勝るとも劣らない。
この崇徳の不運は曾祖父に当たる白河院が稀代の色情狂であることに始まる。
この白河院と言う男、女とみれば誰であろうと手を出してしまう、下の始末の悪い色気違いである。
孫の嫁、藤原璋子すなわち待賢門院に手を出して孕ませ、産ませた子が崇徳なのだが、藤原璋子は孫の鳥羽天皇の妃であった。
この藤原璋子は平清盛も思いを寄せるほどの美貌であった。
それ程の女を色狂いの白河院が放っておくはずもなく、見境もなく孫の嫁に欲情し情交に及び、挙句の果てには孕ませ、産ませた子がのちの崇徳天皇である。
それにしても平安の世のおなごの節操のなさにはほとほと感心する。
貞操感覚は全くないといっていい。
鳥羽天皇からも恨まれ、兄弟(のちの後白河)からも恨まれ、疎外され続ける。
鳥羽にしても、兄弟にしても白河院へ向けられぬ恨みをすべて崇徳に向けられるのだから、たまったものではない。
 
徳川の大奥と言う妾宿以外の武家の子女の貞操感とは雲泥の差がある。
尤も平安の頃の宮中の女官などと言うものは、すべて天皇の女、妾と考えてもいいのかも知れないのだが・・・・・
長袖連中にしても、清盛などの武家にしても、妾候補として子女を宮中へ送り込んでいた時代だから、天皇にすればより取り見取りであったろう。
それはそれでいい・・・・・だが孫の嫁を孕ませるなどは次元が違う。
 
その崇徳を無理やり退位させ鳥羽院の子に譲位させたことから様々な不都合が起きる。
鳥羽上皇にしてみれば、怨みの向ける方向が違うのだが、己の妃が爺様と密通して生んだ崇徳にいい感情は持たなくて当然・・・・・妃が不倫の末産んだ子には憎悪以外に向けるべき感情は持ち合せなかったであろう。
この白河院の女狂いは年を経るにしたがって、激しさを増して言ったようで、平家物語にまで書かれてているほどの色情狂であった。
徹底的に崇徳を嫌う。
崇徳にして見れば、若くして強制的に退位させられた後は、自分の実子に譲位したいと思うのは当然・・・・・・
此処でも鳥羽院は崇徳を嫌い自分の子に譲位させるが、それが近衛天皇である。近衛天皇は若くして逝き、後を襲ったのが後白河天皇
 
運命とは皮肉なもので、事態は急展開を見せることになる。
後白河天皇が即位した翌年、鳥羽上皇崩御してしまう。
治天の君を夢見てた崇徳も此処で堪忍袋の緒が切れた。
崇徳と後白河は兄弟で権力の座を争い、そして、公家に代わって台頭してきた武士階級の源氏と平氏をも巻き込んで、血で血を洗う戦へとなっていく。
これが、世に云う保元の乱
この保元の乱では平清盛・・・、源氏を駆逐して、ここから清盛の出世が始まる。
世の不思議と言うのか、ここで掛けた清盛の情けが、後年清盛一族を滅亡へと導くことになる。
たった一人の人間の心の動き一つで、現代に繋がる世の歴史に変革が加わるなど、実に恐ろしいことである。
 
保元の乱はあっけなく、崇徳の敗北に終わり、讃岐に流されここで不遇な生涯を終えることになる。
此処で後白河の崇徳に対する扱いが悪かった。
それはそうだろう、自分の母が、曾祖父の子種を宿して産んだ子が崇徳なのであるから、単なる不倫などではなく、とても許せるものではない。
昔の権力争いで身内ほど危険なものはない。
不遇な配流の身にあったものは都へ帰ることを夢見るのであるが、叶わぬとなると、怨みを残して、配流の地で果てることになる。
その後八年の間、讃岐に留め置かれた崇徳は、朝廷を呪い、世を呪い続け、ついに狂い死にしてしまう。
菅原道真然り、崇徳然り、逝ったのちには、都で凶事が次々の巻き起こる。
この時代、その怨霊を鎮める為に、祟り神を祀る様になる。
だが、後白河は祟り神鎮護の社さへ作ることはさせなかった。
だが後になって漸く、崇徳の霊を慰めるために、崇徳の屋敷があった鴨川の東、春日河原に粟田宮という神社を建て、そこに崇徳天皇廟を造った。
 
長い年月とともに粟田宮は衰退し、地蔵尊だけが残ったのだという。
この地蔵様が人食い地蔵と呼ばれている様だが、すとくがなまって、人食いになった様で、これは崇徳の怨霊とは関係ないらしい。
 
崇徳は五才にして天皇にさせられてしまうが、当時は院政の時代。
白河院は政だけに限らず孫の嫁にさえ手を出した破廉恥な、女に狂った男であった。
先祖にこの様な破廉恥漢がおり、その犠牲になって怨霊化したものがいると、やはり気になるのであろう。
近代になって、崇徳の霊を慰める行事を明治と昭和になって行っている。
 
先祖とは言っても、万世一系の皇統とは言うけれど、初代崇神天皇以来、本当に欠片ほどの血でもつながってた可能性があるのだろうか。
武烈が崩御した時、子はなかった。
そこで継体に白羽の矢が立ったが、継体に至っては入り婿的な天皇であった記述もあり、更には蘇我一族が実権を握っていた時代、新羅百済の王族が天皇に据えられた時期が何代も続いたという記述もある。
古事記や、日本書紀史記としての実体を備えていないとすれば、我が国の正確な歴史は闇の中という以外にない。
 
物部守屋蘇我稲目に始まる蘇我一族が台頭していた時代、いとも簡単に皇子たちを弑する手段を使って皇位を己らの都合のいいように操っていた。
蘇我一族は、蘇我蝦夷の代から日本の王を百済新羅の王族から選出した。
この時期百済新羅の王族が頻りに倭を訪れている記述がある。
蘇我一族が政を檀断していた時代、皇位を操作することは容易であったろう。
推古天皇崩御以来、純粋な倭人の国王即ち天皇はいない。
明王朝の血筋は、聖徳太子の息子である山背大兄皇子が弑いせられた時を最後に途絶える。
蘇我入鹿が山背大兄皇子を殺害した時、日本書紀によれば、蘇我蝦夷は、蘇我入鹿の行為を嘆くとともに山背大兄皇子の死を悼んだ。
これは日本に王族の血が絶えたため、今後の国家経営が難しくなることを嘆いたのであろう。
とは言っても史記が信用できないとすれば、どの時期から朝鮮系の王族が皇位を継ぎ、何時の時代に倭人天皇に戻ったのか確定することは甚だ難しい。
それが果たして真実であったかどうかを検証するすべはない。
万世一系天皇が我が国を統治すとは言っても、この時代は言うに及ばず、武家が台頭して以来天皇は単なる名目だけになってしまった。
近代になって御前会議などがあったにせよ、政府や軍部に牛耳られ、戦後に至っては象徴的存在になってしまった。
 
崇徳院の怨霊について書いていたのだが入りきらなくて、ここまでは二つに分けた導入部で崇徳の怨霊と西行について、へ続きます。
 
 
参考文献
日本書紀            宇治谷孟訳注                  講談社学術文庫
平家物語            宮尾登美子                  文春文庫
 
 
 
 
 
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