徒然の書

思い付くままを徒然に

葉隠武士道

武士とは死ぬことと見つけたり・・・・
 
あの先の大戦の時、あたら多くの若者を死に追いやったこの言葉、忘れようとも忘れられない、心の棘である。
 
葉隠を読み進めていくと・・・・・
葉隠武士道とは言われるが、果たしてこの男、武士道の何たるか判っていたのだろうか。
ただ、死への憧れみたいなものと言うのか、死ねなかったコンプレックスの様なものは、抱えていたような気がする。
 
武士道の極致みたいな書き方をした葉隠ではあるが、この葉隠の口述者とされる山本常朝・・・・・・
この男、それ程の男であったかどうか・・・・・
冒頭、武道の大意は何と御心得候や、と問い懸けたる時、足下に答ふる人まれなり。
かねがね・・・・・・・さては、武道不心得の事、知られたり、油断千万の事なり、などと述べている。
この後に、武士道とは死ぬこととみつけたり・・・などと言って、さもこの葉隠が武士道の真髄を説いたかのごとき印象を与えている。
 
武士道とは似ても似つかないことを思いつくままに喋ったのであろう。
それを常朝の信奉者であった田代某が書き綴ったものを、編集もなく葉隠として世に出した。
編集もなにもされないまま、世に出て一部分だけ見て葉隠武士道などと喧伝された、奇異なる書、である。
だから、内容は様々なことに触れている。
祐筆を務めたと言われるくらいだから、武道とは凡そかけ離れた男であったろう。
 
武士道などと言うものが喧伝され始めたのは、恐らく徳川に入ってからのこと。
幕藩体制の維持のため、武士の在り様を、儒教と結びつけられてからの事。
 
元々、武士などと言うものは、荘園の番人、護衛として荘園主に雇われ始めた、雇われの身だったのが最初であろう。
戦国の世では、武士道なる道と呼ばれるものは存在しなかった、と言っていい。
それが徳川期に入り、家康が儒教を取り入れた・・・・・それと結びついてから武士の在り方みたいなものが形成され始めたのであろう。
武士とは言っても、藤堂高虎の言う如く、七度仕える主を変えなければ本当に仕える主君を見出すことは出来ないと言う程、武士道の本分とされる忠節など最初の頃はなかった。
 
この山本常朝が生きた、元禄から享保の頃は江戸期の爛熟期であり、あらゆる階層の人々を獄に繋ぎ、死を与え、人々を恐怖させた、あの犬公方で有名な稀代の馬鹿将軍、綱吉の乱費によって幕府財政が疲弊していた吉宗の時代。
 
山鹿素行軍学、武士道の影響を受けた赤穂の武士の仇討の余韻が覚めやらぬ時代である。
とは言っても、この仇討、忠義の武士道精神から出たと言うよりも幕府に対する単なる意地であったろう。
幕藩体制が作り上げた武士の哲学と言うものが生きていたとすれば、たかだか五十数人の集団では済まなかったであろう。
武士道を貫くとすれば、あるいは城を枕に、討死と言う戦に発展していたかもしれない。
この時代、武家の財政は逼迫し、町人に牛耳られていた時代である。
この時代の武士が一人一人武士道などと言うものを自覚していたなどとは到底思えない。
武士など軟弱になって、腰の刀が重いと、細身の刀を差していたが、気位だけは高い時代でもあった。
武道を練り上げるなどと言うのは、凡そ次男、三男の冷や飯食いの、部屋住みに限られていただろう。
 
武士道などと言うもの、儒教と結びついた幕府によって作り上げられた、誤解の産物であったろう。
しかもこの様な時代には、既に儒教を根幹とする武士の在り方も崩れ始めていたことだろう。
その様な時代に、武士とは死ぬことと見つけたりとは言っても、何のために死ぬのか、何のために死ななければならないのか、武士にとっても理解し難かったであろう。
 
この山本常朝と言う男、武士が戦って死にゆく様も知らない太平の世に生まれて、武士と言うものが輝いていた時代にあこがれや羨望を抱いていたのかも知れない。
この山本常朝が仕えた鍋島藩が生き残った経緯が語られた時、それを聞くにつけ、その憧れみたいなものが山本の心に萌したのかもしれない。
そのことが、山本自身のコンプレックスとして心の片隅に根付いていったとしても不思議はない。
それ故かどうかは知らないが、山本自身次のような事も言っている。
 
時代の風と言うものは、かへられぬ事なり、段々と落ちさがり候は、世の末になりたるところなり、一年の内、春ばかりにても・・・・・・・されば、今の世を、百年も以前のよき風に為したく候ても、ならざる事なり。と
 
この様な感覚が、三島由紀夫に感得されたのかも知れない。
あの大戦の時、多くの若者がこの葉隠の武士道とは死ぬことと見つけたりと言う言葉を、軍部により洗脳されて、逍遥と死についた・・・・・・
己は、軍人にもなれなかった、三島由紀夫が武士道に憧れを持ち、葉隠の言葉に飛びついたのは、彼の内に潜むコンプレックスであったのではなかったろうか・・・・・・
 
山本自身、寵愛を受けた藩主の死に、追い腹禁止によって、殉死できなかったその悔恨が、常朝の死についての特別な思いが内にこもったとしても、不思議ではない。
 
あの、武士道とは死ぬことと見つけたり、という言葉は常朝が腹の底から絞り出した雄叫びであったかもしれない。
あるいは、世は浮かれた元禄から、享保に移り、四民の頂点に立つ武士とは言え、武士の時代は終わったと言われた様に、世は町人の時代に移っていた。
死などと言うものを忘れ、時代の波に流されていく、武家に対して、武士とは死ぬことと見つけたりと、時代錯誤的な言葉を発せざるを得ない、老人の迷妄であったのかも知れない。
 
武士道については新渡戸なども書いてはいるが、この葉隠武士道を肯定する気にはなれない。
同じ佐賀藩の出身である大隅の言うがごとく、奇異なる書、として排斥されない限り・・・・・・・・
大戦の時に利用された葉隠武士道が、今後も利用されないとは、だれも補償することは出来ないであろう。
武士道と言う言葉に、特別な感情を刷り込まれた遺伝子を持つ日本人である限り、・・・・・日本人の迷妄ではあるが・・・・
 
 
 
 
 
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