徒然の書

思い付くままを徒然に

午後の思惟

洋の東西を問わず、神々として登場してくる者たちはどんな者だろうと思っていたのだろう、と今自分に問うてみた。
思い返してみても、改まって考えたこともなかった様な気がする。
それだから、神社に初もうでに行き、神棚に燈明を灯し、お伊勢さんと呼ばれる天照大神などを後生大事に祀ったりもしていた。
西洋の神はこれまで聖書なども部分的に読んだことはあっても、宗教的な意味で読んだことはなかった。
いま、新めて古典として、古事記日本書紀、西洋のものとして旧約、新約聖書を読んでみると、今まで神とは崇高で、近寄りがたいものと、思っていた自分の馬鹿さ加減が情けなくなる。
神と言うのは、何も崇高な近寄りがたいものではなく、願いを込めたり、救いを求めたりする存在のものではないことに気が付いた。
と言うよりも、神などと言うものは人間そのもの、この世に存在する人間一人一人の行いそのものが、神の行いなのだと言うことに気が付いた。
神って何だと、問いかけるよりも、一人一人の人間を見ればいい。
 
虐めをし、暴力を振るい、はたまた人を殺し、戦争などを起こして殺しあうことはすべて神の行いと全く変わらない、・・・・と言うよりも神が行ってきた、そのものと何ら変わりがない。
神の言うことを利かなかった、神との契約に違反したと言っては何万もの人々を殺戮する神・・・・・・
大量殺戮などは、旧約聖書を読んでいると神は日常茶飯事の如く、平然とと行っている。
嫉妬深くて、意のままにならないものは簡単に排除する。
人の居住しているところへ自分の意に叶うものを連れて行って住まわせ、争いを起こさせるなどはに日常茶飯事の如く行う。
これが神の行いなのである。
 
我が国の天照などは猜疑心が強く、争いをお越し、身内であっても、平然と他国へ追い払う。
素戔嗚を追い払い、月読を追い払って、お山の大将。
これを神として崇めていた。
それを、神国だ、いざとなれば神風が吹き、助けてくれる。
戦を起こしても神国は負けることが無い、と馬鹿な為政者が何百万人の国民を戦争に巻き込み、何千万人の国民に塗炭の苦しみを与えた。
性懲りもなく、戦争の悲惨さを知らない世代の為政者がまたもや集団自衛だなどと、軍備の拡張をし、他国を恫喝しようとしている。
今、穏やかに暮らしているこの国を、住まいする人々を、神の真似をしてモゴラやソドムの様に、壊滅させることはあるまい。
 
 
 
夏の名残り
 
 
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