徒然の書

思い付くままを徒然に

~~の為に行うのだという不遜な考えは

菜根譚は人に恩を施すものは内に己を見ず、外に人を見ざれば、すなわち斗粟も万鐘の恵みに当たるべしと言っている。

すなわち、人に恩を施すものは心の中に施す自分を意識せず施される相手の感謝を期待しないようであれば~~~

~~の為にするのだという人間の心のうちについて、心ある人間が考えることは考えることは、似たような考え方に到達するのであろう

現代において、殊勝な見返りをわずかでも思い浮かべず人に施しをしようとするなどというものはおそらく皆無であろう。

何らかの見返りをわずかでも心の底に思うならそんなものは斗粟にも値しない。

~のために、行うなどという事は、どれ程良いことのように見えても、それは卑しく貧しいことだ。

だれだれの為にであろうとも何々の為であろうとも、もしそれが何の効果もないものであったとしたら、相手もしくはその事情の所為にする心が生まれる。

それが、うまく運んだ時には己の手柄にする心が生まれ、あわよくばその見返りを期待する心が生ずる。

その何内のためにという事の発端にそのような心が芽生えていないときでも、成功に対する自分の手柄だとする慢心が生ずる。

本当は~~のためにする、という行いは己自身の為だけに行っているのである。

なぜなら、本当に~~のためにという事が純粋に己の心の愛の発露として行われるときは、~~の為にという、言葉や考えなどが出て来ることはない。

ニーチェがツアラトゥストらの中で言っている。

人間の考えることは西も東も心あるものが考えることはみな同じなのだろうとつくづくと思ったものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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